基本的なことに我々は振り回されている。たとえば、不良とか真面目とかいう概念を、すぐ、他者にも自分にも割り当て、それで判断したつもりになっている。この概念で何をかんがえているのか。この概念の適用で個別者をどう総括しているのか。図式もいいところであり、想像力のおままごとである。そういうことが、我々が普通やっている判断ということなのである。個人から国家までそれをやっている。こういう恣意的判断に批判的であることを止めれば、正しい判断というものは止む。ぼくは判断することを止めろと言っているのではない。反省が大事なのであり、その反省の集積もまた、判断の集積にほかならないのである。日常的にやっていることを反省することが、正しい判断への第一歩である。それで、不良か真面目かという問題をとりあげた。というのは、ぼくは本性が不良なのではないか、それでいいではないか、不良力というものだってありそうである、と、さっき真面目にかんがえていたのである。そして、ぼくのその思惟の粗雑さにじぶんで唖然となったのだ。ああ、こういうことを日常的にやっているのだな、と気づいた。ぼくはふだん如何に、他者を、真面目か不良かという枠で、判断していることだろう。じぶんも不良ではないかと一瞬以上思い、それからそれを肯定してやろうとしたとき、いかに、これしきの概念にも振り回されているじぶんであるかに、あきれた。ありのままのじぶんは、ぼくは、不良でも真面目でもないのだ。ぼくらしいあり方をしているにすぎない。それをそのまま知ればよい。不良でも真面目でもないぼくを。そして反転して他者をもそのように知らなければならない。借りものの概念を介さずに、具体的な他者をそのまま知らなければならない。ここで、「知る」という言葉にぼくが籠めた感情は熱い。冷静でありながら情熱的だといってよい。正しい判断は、きっとここから始まるのだ。思いがけずもこの始まりにじぶんが、ぼくが至ったことで、いまは前進としよう。