あ~ぁ、あ~ぁ、 

 

どうしたの? 

 

うん、日本の学者というのは、どうしてこう無教養なんだろうね。人格がなっとらん。ぼくがヤスパースをやろうとすると、カント学者が、ぼくにカントをやらせようと、ヤスパースをけなすし、ぼくがマルセルに関心をもつと、ヤスパース学者が、ぼくをヤスパースに引きつけておこうと、マルセルをけなす。どっちにしても、日本で著名な学者たちのやることじゃないよ。言い方、あるいは人格の態度ひとつなんだ。それが、まるでできていない。京大・東大で勉強してて、ああいうものなのかねえ。学問上の理解力にかぎって言っても、まるで片輪なんだ。つまり、人格が片輪だっていうこと。思想の包容力がまるでない。それではぼくを留めおくなんてことはできないよ。ようするに、人間を舐めてるんだよね。

 

 

大意としては、あなたが以前にもおっしゃってらしたことね。 でも、お勉強のことに意識が向くと、昔の不愉快な記憶に妨げられるのも、困ったことね。あまり勉強したくないんじゃなくて? 

 

したくない勉強はしないよ。だけど、これは勉強しておかなくちゃ、という気持は、どうしてもこれやりたい、というのとも違うだろうね。そこに隙があるとはいえる。ただぼくは、好きなことだけやる、というのも、詭弁に近いと思う。これはやっておかなくちゃ、というのは、包括的には好きでやるのと同じだと思うよ。まあ、これはぼくのことだから … 

 

 

ちょっと話が変わるけど、ぼくに無礼をした者は、ぼくが直接手を下さなくても、どこかで罰に相当するものに遭っている、と、ぼくは思う。これはぼく自身のことの反省からも、とても確からしいと思うんだ。罰を与える存在が、どんな存在でも、この場合、どうでもいいよ。 人間は、厳粛にすべきだね。 

 

 

ともかく、お気持を言葉にして外に出すこと、形にすることは、いいことだとおもうわ。気持をもやもやとしたままにしておくよりはね。 

 

 

まったく。人間はね、ものの言い方ひとつなんだ。それにすべてが現われる。それができないのは、ぼくに言わせりゃ、ばかだね。