初年に書いた節の三度目の再呈示 立派な文だ いまのぼくが叱咤される  



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海を見たかった。ただそれだけのために、出かけた。普通に歩けなくなっていたし、今でもそうなのだが、いっそうわるくなったため(薬で)に、症状の逆手で、却って見かけ上は普通に歩いているように見せかけられる。動かなくなっていた筋肉が遂に消えるところまで症状がすすんだ(薬で)ために、却って脚がぶらぶら前に繰り出せるようになったからだ。筋肉の無い脚の骨を義肢の様に前に繰り出して、バランスをとって歩くのだ。なんともひどい話だ! 二本の棒の上に胴体をよいしょと乗っけたような感覚でどうにか力をいれて立っていることができる。けっして健常体の普通の立つ感覚ではない。半分の動かない筋肉がとうとう無くなるところまできたので、どうにか動くあと半分の筋肉が、胴を支えるのに充分ではないのに却って自由に動かせる。だから立っているのにすごく緊張と努力を要する。眼の筋肉もなくなってしまったらしく、不自然なひどい遠視(延びきったままになっている)で勿論字を見る時だけ眼鏡をかける。かけっぱなしだと近くのものもぼやけてしまうので文字を見る時だけしかかけていられない。これは正常な身体経過ではなく薬による全身変質の一結果である。とにかく海を見たかったのでその体を操ってバスに乗って近くの波止場まで行った。海という「もの」を見たかったのである。帰って詩集を繰っていたら高橋の詩を再読することになり、前節のイエスを詠んだ詩がはじめて今の私の意識(思想)境位でわかることに気づき、メモリアルとして載せた。高橋は高田の生涯の友で、フランスでマルティネがそうであったように日本でそうであった。思想ではなく人格で友であったことが同じなのである。群馬・前橋の高橋生涯の地には高田が建てた高橋詩碑がある。それに刻まれているのが「無題」の詩である。高田・高橋の交流〔交友・友誼より交流の語を選ぶ〕は高田・マルティネの交流とともに論じる価値がある。「理想と愛」を求めた男同士でのみ語り合える「女性には解らぬ、男の多過ぎる秘密」(高田が病床のマルティネに語った言葉)を了解し合った。これを立ち入って研究するのもまた本質的に重要と思われる。
「女性には解らぬ」と言ったが、男の女性への愛と、男の求める野心・夢・理想とは、ともに、女性には解らない本質のものが多い、ということであろうと私は見当をつけている。高田、マルティネ、高橋、この三人に限ったことでないのは勿論だが、彼らのような純粋で理想主義的・精神的な男にこそ、女性への愛情の問題は具体的に深くかつ運命的に経験され、人生を本質的に動かしている。彼らは聖人・所謂哲人なのではなく、「人間」なのである。(ヤスパースは「人間」でありつつ哲人であろうとした。彼は、感情の彼岸へ到ろうとするストア的哲人を欲しないと明言した。マルセルも一層同様である。)そして女性への愛情の問題にたいする態度に男の品格と創造性は証される。


私はPCで創造行為をするのに日を決めようとしたが、創造の本質から間違いであった。意志的制御は真の創造にとって相対的にその都度役立つのみで、意志自体が全体を区切るのは内的創造経緯の破壊である。創造は常に、自己がそのなかで手足となって働く、生きて深まりゆく流れである。



「もの」としての海そのものに惹かれる。あんなに単調にみえて動いてやまない巨大なもの。海そのものを撮るためにぎりぎりまで近づいていった。あと数歩で海に転落して死ぬと想像しぞっとした。海は身近な死のまねく神秘であり恐怖である。近寄りがたく身近にあり惹きつける異世界の実体である。



リルケは、詩は経験なのだと言った。記憶が蓄積されることによって何時かぽっかりと不意に実体的な言葉が浮び上がる、それが詩(形を得た経験)だと。ヴァレリーは、創造作品を、生の海から生じる精神の結晶として渚の貝に喩えた。思想や詩も、それ自体がそのようにして出来た「もの」としての堅固さ或いは実体性をもつべきだということを僕は私淑先達らから叩き込まれてきた。言葉の紡ぎ物が恣意的想像のアラベスク(組合せ装飾物)であることから克服されるためには、素直にありのままの直接感覚に密接し、それを言葉に置き換えるいとなみを蓄積してゆけばよいと思う。やがて、詩になるにせよ思想になるにせよ「形」を見出してくるであろう。それが作品であり創造であると僕はずっと思っている。この緻密ないとなみにこそ熱情と根気が要る。


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僕はこれまでセザール・フランクは交響曲、ヴァイオリンソナタ、オルガン曲で手一杯だった。交響詩の世界には今回はじめて入ることが出来た。交響曲にも初めなかなか馴染めず、随分時間がかかったことを思い出す。モーツァルトでも同じ経験をした。しかし或る時不意に扉が開かれ、それ以来モーツァルト好き、フランク好きになるのである。モーツァルト、フランクの独特の内実が、聴き手の側の感応力調律を要求する。フランク弦楽四重奏曲、ピアノ五重奏曲にいたっては、交響詩に続いて今度はじめて感応することができた。フォーレの四重奏はとくに暗記するほど経験したにも拘らず。ベートーヴェンの四重奏も勿論経験している。フランクのそれは両者の特徴を彷彿させながら実体は全く違う。精神の在りようがきわめて独自なのは彼の他の作品と同様である。しかも彼の世界の峰々は其々が固有のものをもっており、一の峰に感応できたからといって彼の他の領域(ジャンル)の峰に感応できるとはかぎらない。同じ作曲者のものでありながら何か其々別の世界がある。フランクの「同一性」は勿論在ると思う。しかしそれは一の峰の経験によって既に感得できるようなものではなく、各々の峰の独自性を経験し得たあとではじめてそれらを包越するようなものとして想到するようなものである気がする。そういう意味で彼の本質は私にはいまだ神秘で謎なのである。このような作曲家を他に経験したことはない。しかし私には彼の本質への信頼がある。すでに経験した諸峰がそれをまったく揺るぎのないものにしている。彼には少数の音楽家にしか明瞭でないメタフィジックがある。

 (19:40)