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デュ・ボスの論から、ボードレールのものを読みだした。ぼくのいまのとんでもない状況だからこそ、共感するところがあるようで、それに期待したい。この欄を書くことより、読むことに時を使おう。 

 

 

「生まれつききわめて質の高いボードレールの判断能力は、生涯の最後の十五年には、いわばその所有者の意志から独立していると形容できるような仕方で判断を下すという段階にまで登りつめていた、―その段階では、精神が間違うことを人が望んでも、精神は間違うことができないのである。この点に関して、この判断力の光景以上に堂々とした知的光景に私は一度も出会ったことがない」 デュ・ボス

 

「どのような種類の創作活動においても許容できるのは完璧さだけである」 ボードレール 

 

「技術上の完璧さは、それ自体が目的というよりもむしろ彼にあってはいわば本質的な完璧つまり精神の完璧を付随的にあらわし、それを指し示す。」 デュ・ボス

 

「「即座に仕事に取りかかることは、たとえその成果が思わしくなくても、いたずらに夢想しているよりはよい」とボードレールが書いた時、この言葉の背後には二十年間の限りなく悲劇的な経験があった。「私自身の私自身との尋常ならざる闘い、絶望、夢想などをあなたに語りたくはありません。」」  

 

「 おお、至福よ!我々が一般に人生と名付けているものは、それが最も幸福な展開を見せている時でさえ、私が今体験しており、一分ごとに、一秒ごとに味わっているこの至高の生とは何の共通点も持たない!否!ここにはもはや分もなく、秒もない!〈時〉は消えてしまい、統治しているのは〈永遠〉、悦楽の永遠である!」 ボードレール 

 

 

ぼくが精神の火を点火されるのは、このデュ・ボスのような文章を読むことによってなのである。 ぼく自身がなかばボードレール的な域に達しているからなのかもしれない。 この欄がどういう境位を開くか、その重要性を、ぼくもまだ未知なのだろう。そうでなければ・・・