二度目の再呈示。 懐かしい。 じぶんになりきって書いている。 



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小さい時、「この子は子供らしさがない」と親からよく言われた。「ませてるみたいだ」と言った小学校の先生もいた。幼児から大「意識」家だったと言ったほうが当たっている。小学入学時の心理(知能?)テストで絵を見せられ、「これらのなかで木になるのはどれ?」と言われて、「ぼくが気になるのはどれだろう」と一生懸命自問していた。

突然、どうしてぼくはこの身体のぼくであって他の身体のではないんだろう、と、意識と身体の結びつきの不思議さにとらわれた。自分の手を動かしてみて、動いている手と動かしているつもりの意識とをまざまざと判別した。

何十年かしてやがて死ぬのだろうと思うと憂鬱で死ぬほど重苦しくなった。周囲は、「大人になるとやがて考えなくなるよ」と言った。これはその通りだった。生きていることは生きることに集中することだから。

これ以上言うと読めなくなる人がいると困るのでやめる。ぼく自身も汗をかく。子供が単純だというのは大嘘で、分裂から統一へと向うのが「人間となる」ことなのだ。

 やっとヴァカンスに入っている。これまでの文も読み返してみてください。


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自己肯定するには、邪念と付き合わないこと。
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動物にも「人生」があることが解ったら、・・・には行けないだろうなあ。
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病人でも最後まで生きようとしているのに、現役の健常エリートが自殺する国というのは、奉仕は求めても「人間」を大事にしない国である。社会の体質を変えるのは個々人の意識である。

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(昨日僕がリヒターを聴いていた時、自然界では超満月だったそうである。記念に記す。)


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感謝されるような思い遣りは究極のものではない。本当の善意は形には現れない。表になど出ない。知られない。創造主にも問題にされないだろう。共感されるようなものは究極のものではない。本当に自分を出したら誰も共感しないだろう。魂の告白であるルオーの絵は共感されるようなものではない。ルオーにだって解らない。だから彼は描き続けた。自分のみを探求した。愛想の無い人間になれるには余程の自分力が必要だ。善悪の彼岸の善意。「独り言」