状態の制限があっても、限界まで魂の美の懐胎を持続させ再開すること。それがこの世からの超脱であり、きみへの忠実の努力だね。 

 

 

やはりぼくも具体的な超脱的美の創造に向かわなければならない。魂の調和に向かうことなのだ、それは。それが他を否定することとなる。高田さんも存在自体が美であったわけではない。美に向かう生をいきた。だからかれと再会することになる、ぼくがいまの気づきの方向にいきることは。

 

 

 

怒りが形を得るとは、魂が調和を得る美に向かうことによって他を否定することである。魂の調和そのものが超脱なのだから。

 

 

怒りである否定は美によって実現される。 

 

 

ぼくは怒りの対象を直接相手にすることはできない。ぼくの自尊心がそれを許さない。 怒るような経験がぼくに無くて、幸福だったら、ぼくはさほど美を求めず、学者に終始しただろう、とぼくは言うだろう。怒りは愛の証である。