「まず好き嫌いを離れて」、と、道理を解ったような者はよく言うが、こう言うこと自体が、根本的に偽善だと、ぼくは思っている。物事の真理を究める出発点は、自分の「好き嫌い」を見失わず、固執し、この「好き嫌い」の根拠を尋ねることであり、これが存在論的探究である。反対に、理屈によって「好き嫌い」を離れることが、観念論の始まりなのである。 

 無論、自分の「好き嫌い」に固執することは、優れた人間性を持っている者にこそ、許されていることであり、一般化したら大変な探究原理である。自分の「好き嫌い」に自信を持つことは、大変な根源的感覚力を必要とする。無限の内省力が必要なのである。内省力すなわち感覚力であるような力が要る。自分を究めることが第一なのである。それを怠ってあれこれ言う者が多すぎる。99.9%の人間がそうだろう。それで、稀に真理を探究する者が現われると、批判し、独り善がりだとか、世間知らずだとか言って、潰しにかかるのである。ぼくが自分を評価するとすれば、それに負けなかったことである。ぼくが真理の人間だと言っているのではない。しかし真理の人間である条件を持っている。真理の途上にあり、そのかぎりで真理の光を受けていることは確信している。 

 

 

 

ぼくが自分のなかの怒りの蓄積を正面突破するためには、どうしても上のことを言わなければならないようだ。ぼくは、きわめてゲーテ(自分の高貴さを自明のことと意識していた)的な自己意識を武器とするだろう。