個に向き合って問題克服の途を探る教育が必要
2020年12月31日(木)

今年もきょう一日となりましたが、教育問題についてお話させてください。このところ、私のなかで、過去の記憶(それにたいして私は直接に感情反応するだけだった)の固い縛りが急に解けて、過去において、どうすれば、問題となったものが改善されていたのだろう、というふうに過去が問題化されてきていることに気づきました。具体的には、とくに現代の学校空間にあって、生徒・学生は、ひたすら管理の対象であって、個人としての生徒に勉学上の問題があれば、点数ではなく個人に向かい合って、何が問題・障碍であるかを訊き、相談し、共に克服しようとする管理側の態度がまるで無い、という問題です。これでは将来に精神上の禍根を残すのは分かりきっているのに放置して卒業させるということをやっているのが現状です。これはようするに、教える側の器量がまるで無く体制が整っていないゆえの社会現象だと言わねばならないでしょう。
 高飛車に、しっかりせよと威嚇するだけでは、人間の放棄に等しいことです。それを普通の態度として通す学校教育こそは、すべての教育問題のみならず、日本の大人社会における問題の出どころなのだと私は思っています。
 私が主張したいのは、精神医学の治療態度の基本を学校にも導入せよということです。生徒の言い分を聞くこと。それは現体制では無理というのならば、それなら公教育の原罪を教師は自覚せねばなりません。生徒は、教育という「フィクション」につき合わされているのだ、ということを。
 私は、地方の、教育県とも云われた県のトップ進学高校の出です。県下の選りすぐった優等生を集めた学校であり、この学校の生徒であったことは、生涯の名誉にこそなれ、生涯の心の傷にはなってはならないはずです。ところが私の場合は、教師たちの不適切な言動により、自分を過小評価する意識をすり込まれてしまいました。大人になって、この頃の心傷は消えるかと思いきや、逆に、歳を重ねる程、受けた否定的抑圧意識は、一層鮮明に現前し、毎日、当時の高校教師たちを、墓の中にいるなら引きずり出して、ぶん殴ってやらねば、私は学校から卒業できない、という感情が高まっていることに、じぶんでも驚くと同時に、これが人間の心なのか、と、認識の念を覚えています。人生の出発点の時期でもある高校時代というものは、自己意識が初めて目覚め、多感で高度な意識をもつ者ほど、学校勉強だけに押し込められないものを抱えており、表に出る出来だけで評価することはできません。私の場合は、後にフランス・パリ大学ソルボンヌで、きわめて優秀な成績で哲学博士号を取得し、堂々、日本の国立・有名私立大学で、教えることになりました。青春期に抱えていたものは本物であったことを、社会的・客観的にも実証したわけです。この私にして、高校の頃に受けた傷は、いまだに治っていません。集団主義的な日本の教育は絶対に間違っており、人間の魂を踏みにじる慣習を恒常化するものであることを、猛省させる必要があります。


よいお年をお迎えください 


謹言 

 

日本国民