よい節だ。 いまぼくの関心は、フランスの優美と意志(知性)は なぜ必然的相関にあるかということに向けられている。これは直接によくわかる。 



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「理性的に生きる」とは、人間の、安定した生への願望だろう。そういう生のための態度の工夫である。それはそれでよい。そういう意識工夫は、知性というものの本質的な一側面だろう。知性的であってはじめて優美は成る。


フランスの伝統が「優美」であることは、フランス人の傾向に、情念を知的に統御しようとする志向があるということである。「たんなる情念は醜い。すべての芸術は、情念の統制に基づく」、とするアランの根本観点は、まさにこのフランス伝統志向を体現するものにほかならないことに想到する。

「何が高田博厚をフランスに結びつけたか。あの土地は、知性と感性とがいちばん結婚し得るからだろう」、と、親友 片山敏彦は言っている。 ぼくも、フランスらしいと納得するものとひととのすべてにそれを感覚する。 




勿論知っている。きょうは ル・カトルズ・ジュイエ(7月14日)の日。フランスは鏡のようなものであって、この鏡にどういうものを見るかは、主体の志向次第である。




信仰。信仰がなかったら人間は生きていられない。希望と言い換えてよい。信仰や希望は、持ったり持たなかったりするものではないだろう。生きているかぎりそれによって生きている、それが意識を持っている人間の条件だろう。誰も、無信仰を実行して生きてはいない。動物は信仰がないのだろうか。意識がないのだろうか。意識がないということは、この場合、幾何学を理解しないということである。幾何学を理解する者は、信仰なしに生きてはいない。読者はぼくの言っていることがわかりますかね。

動物は、信仰がないなら、信仰を無くして絶望することもない。