立派な本も、馬鹿が読めば、ますます馬鹿になるばかりであることを、ぼくは多くみてきた。たとえばシュタイナーの本。その反撥と不信から、そしてシュタイナー自身のいわゆる霊的視点という、哲学的・人間的には確かめられないものに関わることへの警戒と、本気の関心のなさから、ぼくは本格的に読むことを自分に禁じてきた。シュタイナーのゲーテ論は立派だと思ったが、くどい長文に閉口して、読むのを休止した。今度は本を替えてシュタイナーの根本思想を、批判的に読んでみようと思う。芸術・美学論だ。これも過去に拾い読みしている。原文はドイツ語で書かれているようだが、彼自身の出自は東欧のようだ。批判的に読む、というのは、ぼくは自分の実体を忘れるような読み方はしたくないので、ぼくの実体を忘れぬよう注意しつつ読む、ということである。フランス系の著作には、こういう警戒はまったく必要なく、素直に没入できるのに、ドイツ系の〈根本的思索〉には、ぼくは相当不信感をもっている。ぼくには当然のことだ。しかし、そういうぼくだから、読む資格があり、馬鹿が読めば馬鹿になるだけだから、ぼくが読まなければならない、と思う。  

 

 

これと関心は全く独立しているが、ようやくヘルダーリンを読めるようになってきているようだ。彼の世界は、ぼくの実体との直接な照応ができて、問題はない。フランス思想派の高田博厚も、根本的な人生場面でヘルダーリンの言葉を引用するほど、共感しているようだ。ヘルダーリンの伝記を読むと、彼の世界の勉強はぼくにとって必然的であると思うようになってきている。いままで何が歯止めになっていたのか、いまのぼくだから言うが、解らない。 

 

 

 

 

 

ここでは余談のかたちになるが、社会次元で、人間はこのあたりで生き方の転換をすべきではないか。ぼくも、こんなにいらいらする時を生きた時期はない。個人と社会との軋轢がひじょうに際立ってきているのである。自分を生きない者のみが、きれいごとを言っているようだ。 ぼくは、現時期の大学生たちはかわいそうだと思う。人生経験としての出会いも禁じられている。ぼくは、公共の要請に反しても自分の自己実現のために生きることは、大事で立派な決断だと思っている。自分の存在を真摯に培おうとするならば。