ふと思いだすのだが、哲学をやっていてあんなふうじゃいかん、と思うやつばっかりだ。哲学をやったなら、人間各自はそれぞれの路をもっていることを尊重せねばならない。そして、人間判断に確固とした感覚をもつに至っていなければならない。それなしで、どういう〈成果〉を誇示しようと、世間事にすぎない。はずかしいことだ。こういうことは多く語る必要はない。 

 

 

「人間判断に確固とした感覚をもつに至っていなければならない」、とぼくは付言した。それぞれの路に就くためには、個に、相応の実体がなければならないのであり、相応の実体を有する者に認められるような者でなければならないからである。この点、ぼくの遭遇したのは、無惨な者たちばっかりだった。よく恥ずかしくないものだ。本人たち自身、よく感じていたろうが、それでもみぐるしいわるあがきを示して、ぼくを二重にがっかりさせてくれた。 

 

 

 

 

 

この瞬間、あなたの懐いていた思いが、やっと結晶したわね。 

 

 

日本はさびしいところだよ。本物の人間がこうもいないとはね。人間は何をやったかではなく、なにを思っているかだ。