ぼくは意識に目覚めたときから同時に意識禍にあった。自分を意識することによる意識膠着だ。意識禍と云っていい。意識の足りない人間がすらすらやれることが 意識の多いぼくには難事だった。ぼくはもっと馬鹿であればよかったと、ほんとうに思ったものだ。 

 

しかしこの意識禍のなかで 岩を砕くように知性作業をすることこそ、真の知性の者なのだ。それがぼくである。ぼくは、意識の足りない人間の生活世界は想像できない。ぼくは、意識過多のゆえの意識膠着でほんとうに苦労した。前者とぼくとでは、比較できるわけがない。頭の良さというのは、多義的なのだ。意識が足りないゆえの知力の活発さは、知性ではない。知性こそは、人間の原理への感覚をもち、原理を探求できる力なのである。誰でも持っている力ではない。ぼくはそれを持っている人間なのである。それゆえに苦労もした。苦労の甲斐があってフランス大学博士を外国人として取ることもできた。ぼくの知性を証したのである。