「判断」は独断である。ぼくはこれを肯定する。「判じ」て「断ずる」ことは、自分のために独りで責任をもってやらねばならない。ものや人間を二つの次元に断つこと(尊重すべき人間と そうでない人間と に)。そうしなければ自己は安定しないのだから。(優柔不断である寛容から得るものはない。) そうして形成する真実こそ、いわゆる真理より大事なのだ。ただしこれはぼくのために言っているのであって、なにかというと他の意見を引用するような、あるいは、ほんとうに幼稚な独り決めをするような、成熟していないその他大勢がやったら大変である。 

 

 

 

 

ぼくの感覚は判じることができる。判断はその感覚の明瞭化であり、感覚に意志が同意することである。そういうことは限られた知性者にしか許されていない。

 

真理の路を知らないで真理を説いているつもりの者が多すぎるから、ぼくもこういう言い方になる。義憤ストレスだな。