リブログ装置で初再呈示  啓示と初心の節 



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未生前の光・人間覚醒の舞台


 
ぼくにとっては有名な舞台だが、先生の感覚覚醒が解るような気がする。まさに言葉以前の、言葉が生れる前の感覚だ。きみをここにつれてきたかった。

 想像とは、一般的に言っても記憶を意志が加工することだ。記憶にもとづかない想像はない。しかもこの想像は記憶から指示を受けている、美を志向する想像であるかぎりは。効果狙いでないかぎり、恣意的な美というものはありえないのだ。ここは美の偽りと真実のものすごく大事な分岐点だね。現代人は絶望的なほどにこの自覚を忘却している。美の前での謙虚さという宗教的なものを想起しないかぎりけっして魂の真実に立ち返れない。美こそは魂のふるさとに直結するのだ。
 ふるさとってどこにあるんだろう。ぼくたちの内部の感覚のみが羅針盤になる。
 
 ぼくはいまあらためてはっきり感じた、思想を求める努力、ぼくは思想を求めているんだけど、それは宗教家が神を求める全魂を挙げての努力とちっとも違わない。いや同じことなんだ。思想を求めることは神を求めること。この瞬間ものすごく明瞭に得心した。思想には人間のすべてが注ぎ込まれる。思想の真実性そのものがそれを要求する。究極において思想が神の自己証明となることは当然なんだ。そういう思想のみが本当だ。ぼくは自分を求める殆ど本能的な思索反省において、必然的に神に差し向けられている。
 これを書いているいまもものすごく睡魔におそわれて時々意識が消えてしまう。さっきのくすりが効いてきたかな。
 でもありがとう、きみと一緒についに先生の庭園に入れたね。ぼくにとっては伴侶を伴っての再帰だ。とても新鮮に先生の思想を初めてのように再認している。こういう真面目で真剣なことをきみとやってゆきたいんだ。きみは自分を大事にしてベアトリーチェよりずっと人生を謳歌してよね。今夜はこれでおやすみ・・




神は信ずるべきものとしてあるのではない、自己への誠実と忠実がついに直面しなければならないものとしてあるのである。人間に誠実さという自由な自己内努力を要請することはできても、神への信仰はけっして要請しうる性質のものではない。これだけのこと―そう、あえて〈これだけのこと〉と言う―が得心できないために〈神〉が不和抗争の種になるのである。