何年前に書いたかと思っていた。今年書いたというのは驚きである。
自分のものを読むと生き生きしてくるというのはありがたい。
つぎのような者たちをぼくは相手にしないのだ。更にそれ以下の者らをどうしてぼくが相手にすることがあろうか。軽蔑しきっていればよい。
テーマ:自分に向って
「自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目から ちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目から ちりを取りのけることができるだろう。」 マタイ第七章四-五
だれでも知っている言葉だが、実践できているキリスト者は数えるほどしかいないだろう。ほとんど みな偽善者である。自分の目の梁に気づく者は、真の反省心のある者であり、とくに宗教者にはいない。信念に固まっている者は、自分の目の梁に気づかない。こう言っても全然足りない。そもそも、自分の梁に気づく程の者は、もともと大した梁はもっていない。ほんとうに梁のある者は、その梁に気づくのは不可能である。イエスのこの言葉の実践は、まず、不可能である。しかし言わなくてはならない。だから、この不可能なことは、比喩で言わなければならなかったのである。イエスは、直接言っても誰も解らないことを知っている。このこと(誰も解らないということ)を、ぼくはいま、すごくよくわかる。ぼくの人間経験が教えてくれた。むしろ、イエスが言いたいのは、みな偽善者だということなのだ。救いようのない、反省すべきことを反省できない者たち。おかしなことに(当然なことに)、他者にあれこれ〈忠告〉する者が、いちばん、反省心の無い者なのである。ひとが去っても、真意を解しようがない者である。反省心があれば、他者に忠告などしないだろう。イエスの諭しは、そういう者たちの次元のものではない。しかし、これは、イエスを信じることによって解るのではない。およそ、イエスをキリストとして信じることによって解ったと思っている者は、とても、真に解ってはいない。信じること以前に解らなくてはだめである。こういうことに介添がいるようではだめである。ぼくは、ぼくが知った者たちのことから、イエスの苦衷がよくわかる。どうしようもない者たち、それでじぶんたちは上の次元の者だと思い込んでいる者たち。かれらこそ、最も深い地獄に転落するだろう。
これくらいにしよう。ぼくの仕事は、かれらどうしようもない者たちを覚醒させることではない。どうして相手にする気が起きようか。