《想念は記憶であり命である》、じつにそうであるとおもうし、そうあってほしい。 そういう境に生き創造する者が、詩人なのである。 すべての芸術家はみずからの内に、そういう意味での詩人をもっているはずである。 

ぼくはそういう詩人の境に生きる人間でありたい。ぼくと本質が同じの他者の記憶も、ぼくがそれを生きることができるなら、ぼくの記憶なのである。



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なぜかは知らないが、記憶は永遠であるという思いがぼくにはある。すべては記憶のなかで甦る。ということは、記憶は生命をもっているということだ。生命は記憶とともにしかない。先生は「神は人生とともにしかない」と言った。同じことである。遠ざかるのは戻って来るためだ。すべては想念なのだから。想念は命であり記憶である。


彼女の「きっと忘れない」の調べがぼくのうちで鳴っている。弾いている彼女が想っていることも同じだろう。理屈を超えたところにつきぬけるすばらしさ。ただ感じていればよい。ぼくは彼女の魂において世界を愛している









きみの心は現世を超えて天に届いています

あらゆる真の愛は此の世にとどまりません



 

きょう撮影 今年最初の金木犀の花






来日したマルセルは自作の曲を弾いたというが、周囲には、付添いのような専門学者も全部は居合わせず残念だったとその一人が明かしている。ロマン・ロランもけっして公衆のために自分の演奏を聴かせなかった。まったく個の密かな祈りのようだ。事実、完全に純粋な音楽は真の祈りなのだ。最も内密な秘義であり、天上との交わりである。もし、彼女がそのことをよく感じ知っているのなら―ぼくはそうおもう―、音楽はすべての芸術がそうであるように自分自身との対話であるという、純粋状態につつましく留まっているのだろう。他の《有名人》とは全然違う彼女なのだから。三顧の礼をもって誰かが彼女のために動け。




 


真面目と言われる日本人に欠けているのは真の真面目さである。ぼくの書くことに感じるのであれば、ぼくがこの欄で言っている意味で真面目になって欲しい。

 

 


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今年の金木犀の開花日であるきのう、ふと再読した過去節が、昨年の開花日に書いたものであった。文章とともに再録する。時間は存在しない。そこに美があるなら。美とは、自分の同一さが刻まれ想起される場である。美とは、魂の場である。

 

(こういうことが偶然なのかぼくにはいつも不思議に思える。むしろ根源的に自然ではないか。愛こそは根源的に自然である。隔てるものがなくなったときに。愛することこそ存在するものの運命だろう。美とは、隔てるものを無くすものだろう。しかしぼくはこのことを逆理的に言っていることを意識している。なぜなら愛するものはいつも具体的個であるから。この箇所を括弧で括ったことは妥当である。)