ここにも書いたが、「神」をめぐる森有正のリルケへの共鳴は、同時に高田博厚のそれを措定するものである。



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昨年の同日

 


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《神は時間と空間をこえた超越的実在ではなく、此岸世界に無数に存在する事物の聖性(ヌミノーズム)、言いかえれば時間のなかにある無数に異なる形態をとってあらわれうる存在そのものなのである。》

 

詩人自身が詩的能力の最初の充溢へと成熟したこと(「わたしは感じる、わたしにはできると――」)が、神の成熟だとみなされる。神は、まるで芸術作品のように、幾世代にも連なる感動した者たちの感受と想像の能力によって創造されるのである》   

 

《ロシアの民衆の敬虔さを体験したことが、詩人に霊感を与え、この作品〔『時禱集』〕を計画させ、実現させたのだと言っても決して誤りではない。》

「リルケ」 理想社 87頁

 

 

このリルケの「神」の理念は、高田博厚の「触知しうるイデー」としての「神」と、ひじょうに接しているとぼくは思う。 

 「神の成熟」とは、人間そのものが、「神」という名を充実した実質で使いうるほどに成熟することである。 神の超越性が消えるほどに、神がそのゆたかさを降臨させることである。 

 

 この神の逆説を、森有正が巧みに表現していることも、その箇所も、ぼくは知っているが、それを思いだすことも、書に当たってたしかめることも、ぼくには必要ない。 その当体を感じているから。