汲むべき点多し。 



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ぼくは、自分の内なるキリスト以外に、誰かと懇意になろうとは思わない。キリストと共に絶対的に孤独である。およそそこへと導かない恋愛は、真の愛になる資格はない。そして、神のためでなければなにものをも愛さないような愛になることが、聖ベルナールの言う最後の最高の愛の段階であった。ぼくはそういう愛を、たしかにそうだろう、と理解するに到っていると思う。そういう方向いがいにはありえない。神を通してでなければ その他大勢とは関係しえない。キリストという「受肉せる神」への愛は必然的にそういう愛へ導く。キリスト教は「孤独な愛」の教えである。それは最も充実した誠実な愛の運命方向であって、しかし「人間キリスト」は不可欠なのである人間がほんとうに魂的にひとを愛そうとするとき、愛せるとき、キリストはその愛せるひとのことである。魂が愛し合うとき、私はそこにおり、神とともにある、とキリスト自身が言っている人間は、真の愛をもとめさえすればよい。そうすれば愛の本質そのものが導く。だれかを愛せずしてそれができようか。ぼくを神にみちびくキリストは裕美さんである。ベアトリーチェよりもベアトリーチェである。カトリックのマリア信仰は教義よりも人間本性に信仰が忠実であることの象徴である。信仰は、具体的な愛からはじめて真実に生じる。それいがいは偽善で観念論だとぼくは思っている。