気づきというよりも発想なのであるが、この節題が浮かんだ。われわれは、隣人を愛するとき、隣人を(無論、空想ではなく経験に基づいて)理想化あるいは本質化し、神聖視して、宇宙のなによりも、神よりも、大事にする。そのような思いを、自分に向けてみよう、という実験意識をここで言っているのである。われわれがなかなか満たされないのは、自分をそのように大事にしていないからではないか、という気がするのである。どこかで義理がたく他に譲るから、自他双方にたいし欲求不満が生じる。自分を譲らないで生活してみたい。案外これが平和の基かもしれない。文言自体はありきたりの発想と思われるかもしれないが、これは、諸賢のためではなく、ぼくのために書いているのである。