みな、じぶんに自信と確信を持ち過ぎているのである。その自信と確信を自分自身で疑ってみるという、高度な思惟操作を内心ですることのできる者は稀である。だから大抵の者は、想像と心像のはたらきによる判断しかできておらず、それで生きており、それを疑うことなど思いもよらない。これが、アランが『デカルト』で告発している世人の様なのである。結果として生じたデカルトの思想に従うことは、何らデカルトそのひとに従うことではない。「従う」という言葉はここではたいへん厳密でかつ柔軟な深い意味をもっている。 

 

われわれは高田のいう純粋感覚に達するべきである。しかしこれは、自分をあえて疑い吟味する精神行為の蓄積をもっている者にしか、達せられない。知性は、感覚を生むのではなく、純化し、同時に、純化すべき感覚によって導かれている。これは同じことである。そして、知性の中核には、アランのいう「疑う意志」があるのである。