デュ・ボスについての証言から、ぼくの主題は、「人間の魂」と「神」であり、このことは、ぼくが魂と神について抽象的にしか語らないと自分で思っていた昔から一貫していたことに、いま深々と気づいている。(ぼくのこの欄の副題が「僕の愛と美と信仰」であることは、一般論ではない「魂と神」がぼくの主題であることを、すでに示していることにも気づいた。)ぼくの課題は、魂と神を、哲学議論の問題とすることなく、人間の、自分の、豊饒な具体的経験の蓄積を通して感得的に理解することであったのだ。この豊饒な感得的理解を最も純粋に実現しているのがフランスの文化であり思想なのだ。この意味で、高田博厚がフランスに根を下ろした理由として、友人の片山敏彦が、「あの国は知性と感性が結婚する可能性が最もある」、と言ったのである。 

フランスの文化・思想にとことん馴染まなければならない。これがぼくの勉強だ。魂と神は、観念的な哲学議論の対象では全くない。人生と人間経験によって至るものである。そういう探求に高田博厚は、日本人としてはじめて生涯を懸けたのだ。 

 

この、真の意味での哲学的探求動機を根源として意識しなければ、〈高田博厚における自然と神〉といっても、迫真の研究にはならない。芸術行為が意味をもつ哲学的場を意識することがぼくには必要なのだ。