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素描もしていなければピアノも弾いていない頃のものの初再呈示。

これらを経験した後のぼくが教えられる。 

 

 


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のんびりゆったりを方針にしている。そうでなければ何も真に感じられない。


宗教的自覚をも人は言葉で論理的に表現することができる。西田哲学を想起すればよい。このヴァリエーションがずっと日本では繰り返されてきた。まだ飽きないのであろうか。それにくらべると西欧の人間思想はずっと感情的である。この逆説はもう周知のことではないだろうか。そして、そもそも宗教的自覚なるものは、真に宗教的なものとしては在り得ない、ということに気付くべきだ。


所謂宗教的自覚など、魂の叫びの前ではひとたまりもない。〈自覚〉そのものが、信仰や愛ではなく 〈知〉の態度なのだ。〈自覚〉するとき、既に当体から自分を離している。


いまさら、特に今の深刻な状況で、西田哲学流にいくらやっても駄目だということは、ぼくははるか以前にとっくに見極めをつけている。ヤスパースも高田博厚もぼくの側にいる(*)〔ヤスパースや高田先生が正法眼蔵を読んで感心したのは別のこと。突っ込めば言いたいことはあるだろう〕。



『彼〔シャルリ〕は何よりもまず『日記』を書くべき人であったし、そうかといって、きわめて立派な本を、その中でもとりわけ『近似値』を書くことができなかったわけではない。『日記』においては発生状態で表現されている直観が、『近似値』では形式を与えられ展開を加えられている。』



諸々の直観から遂に成る一つの形。愛の根源から。



自分の人間を回復させなければならない。



世の中はどうしてこんなによけいなつまらないことを知らねばならないようになったのだろう。



世人がするのは批判ばかり。そして批判はもっともらしいほど常に両刃の剣で、高慢で一方的で現実を捨象して我ひとり悦に入る自己満足である〔社会的に必要な批判は勿論ある〕。
批判も見解もまだなにものでもない。 知性がそれだけで満足するならまことに空虚なものである。 哲学はそれ自体はまだなにものでもない。哲学を越え、踏み出すのが本来の人間の路である。 そうしてはじめて創造がはじまる。

言葉などわすれてよいのだ。わすれられる観念などたいしたものではない。ぼくもそういうものをほんとうに欲しているのではない。 具体的になにを創造しているのか。 批判でも見解でも学問でもない。およそそういう一般的なものではない。知者がモラトリアムで終始するならば学問教に陥っているのである。「これを知ることができたならば死んでもよい」では駄目なのである。問いに終始するのは誤りである。創造できないうちは死んでも死にきれない、というのが本当である。修行や悟りも人格形成すらしないことをぼくは知っている。孔子も仏陀も越える。

だから、ぼくもこういうことばかり言っているつもりはない。ぼくの創造はここには書けないだろう。

言葉を超えた創造、美を創造するひとは何と貴いことか。いかなる聖人よりも尊敬する。


 言葉や観念に踏み留まっている者は例外なく高慢である。高慢な者など無論なにものでもない。高慢な者で俗物でない者はいない。学者はすべて高慢である。学者で必然的に高慢であるが、高慢であることに心中自ら我慢できない者というのは、そのうち自分で路を見いだしてゆく。そういう者は心配は要らない。ほとんどめったにいないけれども。



〈悟りの哲学〉なるものがあるとしたら、それは必然的に観念哲学であり、愛を裏ぎる哲学である。哲学的に戦争を肯定もすれば、迷いを去るためと称して子猫も平気で殺し、後でそれらしく慈しみ弔ったりしてみせる。俗物の開き直りの本質しかぼくはそこにみない。そういう人間は徳を説き実践しつつかならず卑しいこともしている。これは理論で言っているのではなく、幾つもの経験がまずあり、それを反省して、ああ、理論的にもそうだよな、とぼくは なっとくしているところなのである。だから、ぼくは禅者などてんで信頼していない。そして、信頼できる禅者がいるならぜひ会ってみたいと思っている。無理だと思う。ぼくの、禅への喝棒(警策)である。


ぼくは、宗教的自覚を、それ自体の矛盾のゆえに否定する。自覚は、そのつどの反省意識としてあれば充分である。このような自覚(反省意識)は、常に同時にそれ自体の創造的突破の、自己止揚の、意欲としてこそ真正にあるものである。



耐えて生きているが、こんな状態がいつまで続くのだろう。失ったものがあれば得たものがあるというのは、悟りと同根の詭弁にすぎない。そういう詭弁は、水俣病の前で一億分の一秒も持ち堪えられない。魂を裏ぎることなしには。覚者であるつもりの者はすべてそうである。人間として恥ずかしくないものだ!




『彼〔シャルリ〕は、次のような言葉を書き添えて『近似値』第二集を私〔モーロワ〕に献呈してくれた。「・・・ このたびの近似値の大部分は作者ではなく書物を取り扱っております。・・・ そして個々の作品をひとつのまとまりの中に位置づけようとは努めませんでした。その代わり、それらの書物を呼吸し、それらの書物とともに生きることを目指し、さらに、言葉によって定着させようとするやいなや残念ながらかくも巧妙にすり抜けてしまうそれらの書物に備わっている唯一無二の特性を――私がそこで取り上げる事柄によってというよりはむしろそれについて述べるその語り口によって――表現しようと工夫をこらしました。」
 このテクストは、シャルリの批評がどのようなものであるかということを実に見事に説明しているので、私個人に対して書かれたものであるにもかかわらず、あえて引用させていただいた。彼は本を呼吸し、本とともに生きていたのである。・・・』 


「若き詩人への手紙」を書いたリルケの言葉を思い出させる。ヤコブセンの「ニイルス・リイネ」の読み方を、まさにそのようにリルケは言った。



不思議なことに、と言うべきか、学問などしている人間がいちばん浄化から遠い、というのが言いすぎなら、学問と浄さとはまったく関係ないという経験をぼくはしてきた。所謂信仰の有無も関係ないのである。俗物だけがゆるせない。魂に不真面目だから。

浄いとは何であろうか。魂のために不断に闘い得るということである。ぼくのとりえといったらそれしかないのである。このためにはぼくはどんなに裏ぎり者になってもいいという覚悟がある。どれだけの者がそれをわかっているのだろう。そういう者がいるのだろうか。この意味でぼくはすこしも「友」など求めていない。そういうことをぼくがするものか。自分の神と独りいるこのぼくが。きみにぼくが感じているのもそれなのだろうか。

きみに必要なのは、自分を解放しても安心していられる、求めない者ではないだろうか。


自分になりきるほどぼくにはきみの秘密が親しくわかるようだ  


Les amis qui sont véritables l'étaient dès leur naissance.


ぼくにとってのきみは、人間として聖なるものに耐えうるかぎり耐える宿命を背負った、「聖なる裕美ちゃん」なのです。
間違っていないと思う。




この世と関わることがいかに無意味なことか






(他の者たちは、美いがいのあらゆるものを持ち出して、自分から逃げる大義名分をつくっていることを自覚していない)

(人間は、学問などをかじると、生涯それなしではいられない〈ばけもの〉になることが多い。学問はけっして人間になにか本質的なものを加えることはできないのであるが、たいていの当事者は何かを得たつもりになっている。人間が本物でないと、生涯その虚妄から脱せず、周囲をも汚染する。人間はけっして自分が本来それであるものにしかなることはできない。学問虚妄者は、本来自分がそれでしかないものが貧弱なので、学問虚妄者として生きることのほうが自分には快適な者である。それが自己満足であるのは、けっしてほんとうの感動など与えることができないことによって知られる。)





根源に愛があれば、愛から離れないようにすれば、言葉も愛と理解を現わすことができるだろう。そのときその言葉はけっして論理語ではない。