罪はあっても、罰というものはない。当事者が罰だと解釈する場合があるだけだ。罪とは、自分に合わないことをすることであり、そのことを覚知することの不快が、罰と言えば罰なのである。不快を感じたら悔い改めて自分に戻ればよい。あとのこの世の現象は、因果応報らしくみえるだけの戯れである。集合容喙を経験したぼくは、そう理解している。 唯一実体としての神がぼくにおいて行為したのかどうか、それを詮索することはぼくの領分ではない。 一方、自分には無理な宿題を設定しておいて、それができないからと自分を責め苦しむことはない。