今回の世のなかの騒動で誰にとってもあきらかとなったのは、魂すなわち内的人間と、世の政治とは、無縁であるということである。自粛の初心を思いだそうと云うことも、嵐であっても旅行・外出しようと云うことも、医療保持と経済のためにそれぞれ有用ではあろう。その必要性と合理をいささかも否定しない。しかしこれほどあからさまにこの世(社会)の責任者たちが、相互に矛盾したことを言いはじめたことは、いかに、この世の次元においてすら、社会を構成する諸要素が各々二律背反しているかを、おかしいくらい明証している。これらの要素は自分たちこそこの世の絶対原理であることを、対立しつつ主張してやまないのが、目下の状況である(無理に接合しようとして発する言葉が「徹底」である)。このありさまを、われわれは、よく認識しておこう。そして、医療維持にしても、経済にしても、その社会インフラとしての不可欠さを誰も否定しないが、その各々が自己の存続を絶対化するほど、魂すなわち内的人間は、その対立の下に埋もれ忘れられてゆくのである。社会維持の義務の許に、人間が人間らしくあるための言動が禁止されている。親しい者たちが接近し、互いの表情を見、細い言葉を交わすことができない。出会いの機会すら奪われている。政治は、その魂の痛みに感じるようには、次元設定されていない。各責任者たちの、軽薄でおっちょこちょいな〈指導〉ぶりは、周知のこととなっている(まだ、「新しい」とか「少し昔の」とかいう意味不明のスタンスを強制している。どこが「民主的」なのか)。ぼくはもう、書く文を穏当に推敲する気もない。本意を勝手に汲んでほしい。せいぜい、領土を取られないように、断固とした実践を期待する。 

 

 

(こう書けば怒るだろうが、ぼくを怒らせるからである。ぼくが怒るのは、問題があるからでる。)

 

 

ぼくはいそがしい。