馬鹿とはけっしてつき合いが持続することはない。馬鹿とは、じぶんが馬鹿であることに気づかない者のことであり、気づいたら、すでに馬鹿は止揚されている。馬鹿そのものは何ら問題ではない。じぶんの馬鹿に気づかずに言動する者が、問題なのであり、これこそ問題の馬鹿なのである。そういう者とはつき合うな、と云われる前に、誰もそういう者とはつき合わなくなるのが、人間の本性であり、この点、忠告は無用で、安心していられる。忠告は、じぶんの人間としての本性に反して無理につき合おうとする不正直者に、必要なだけである。 じぶんが馬鹿であることに気づかない者にかぎって、他者に、〈人の道〉を説き、この意味で忠告することが好きである。じぶんの馬鹿のゆえにひとが離れてゆくのに、ひとの不徳や誤解のせいにする。じぶんの人間関係法には絶対の自信をもっている。無知・無自覚・無教養とはこのことであり、じぶんがひとを測る量りで、じぶんこそが測られる。これが馬鹿であるが、そういう人間が殆どであると言ってよい。なぜか、とくに日本はそうである。馬鹿を克服する(己れを知る)のに、学問は全然役に立っていない。学問哲学も役に立っていないどころか、益々迷妄を深くしているようだ。ぼくが長年人間経験・観察をしていて確言できることである。学問のほかに人間としてどういう自己反省の営みをしているか。その質が問題なのである。 

 それなくして、思想も芸術も、己れのものとならないはずである。 

 

ぼくは馬鹿と会いすぎた。ぼくと相応の者としか会わなかったのではないことは、力を込めて言っておかなければならない。そういう時代なのである。