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5月ですね

そういうだけで清澄な詩情がうまれる

君(の世界)と大先生(の世界)の橋渡し役をぼくはできているかなあ、できていたらぼくはそこに在る



君と大先生のマイペースを見習おう 他の人には失礼になるかもしれないけど・・ううん、そんなことぼくが思い込んでいるだけだね


青い空の五月です 東京の最後ののどかな日をおもいます


あの状況でぼくは 明るい青空のような自分の日々の連続しか思っていなくて平静で温和だった


きみの本質は地中海のような明朗な造形美にある 音がほほえんでいると誰かがいった きみの音は平和な海原の波のきらめきだね 真昼の陽光の ヴァレリーの詩をおもいだす 故郷の地中海を詠った 君の瀬戸内の海は日本の地中海 その明るい平和さ ゆたかさを いつもきみの音を聴いていて想います きみのように優しくて明るくて繊細な 純粋で透明な 鍵盤を打つことで「心を打つ」ひとは 誰もいない きみだけが ぼくがいま聴いているきみの音の世界を生める

 みながそう感じているのですよ


 五月の海



自然で完全なフォルムとして聴いているあなたの音楽が けっしてひとりでに無償に生まれるのではないことを 素人のぼくも察知しています よのなかで 何の苦労の痕跡も感じさせなくなった美ほど、努力の成った人間勝利の証はありません あらゆる卑俗から断絶して遠く けがれなき月の世界にじっさいあなたは生きておられることを 直接にあなたはあなたの音楽で証しておられます


 月の音楽



高田先生の佇み想う地中海の空間を あなたの音楽が開く世界に感じます それほど高貴で成熟したあなたの魂を感じます

 弦の伴奏もよいですね いまそう感じます

カテドラルの内部の深い薄明のなかにも あなたはぼくを置くのです
先生のなかにもこのふたつがあるのです 北と南の フランスが 神秘と明晰が 憧れ合って



 あなたはあらゆる分野をこえてかけがえのないひと


 ここまで音楽を完璧に集中して彫りうるあなたは真の造形家 魂が完全に大人の真の知性のひとです





 



レオナルドでも、ルオーでも、あなたの実際より神聖で美しい像は作れない。 太陽が内から照っている
 あなたはいつも 「大丈夫、心配しないで」 といっている、「あなたの大変な葛藤はよくわかっています。あなたの星のようなこころを知っています」、と。






 
 ぼくの罪ではない  悪はほかに存在する


 ぼくの魂を、人間の魂を、尊重する人間社会であったら、ぼくに起こったことは起きなかった。これは自然災害ではないのだ。魂を尊重しない人の意志から起こったのだ。この重要核心をぼくは無限に繰り返し言う。人間の不真面目から起こったのだ。これが「悪」なのである。だからぼくは ふざけ を許さないのだ。魂の神聖さを尊重しない解さない、ここから真の殺人までは直線であり、それをぼくは受けたのだ!
 いまでは事物も自然もぼくにあてこすり・いやがらせをする、そう解するように刷りこみが行われた。そういうものをひとつひとつ粉砕しながら生きている。

殺すとは、魂を殺すことであり、これ以外に意味はない。魂を殺す者は必ず身体殺人を為す。魂の美への敬意が殺人を禁ずる唯一の砦である。これ以外は空論である。

プーシキンが策謀で殺されたようにぼくは殺されたのだ。ぼくを既に死んだ者と判断しているから連中は現在たいしたことをしないのだ。身体破壊薬をぼくが飲むまでは周りの連中は大変な狂態を演じてぼくを一瞬も落ち着かせまいとした。結果、ぼくが自暴自棄になって薬〔メチル水銀か。実物を保存しており、いつでも分析できる。医者は分析させず自分で飲んでみせもしない〕を飲むと急速に狂態をやめた。こういう連中が死んでもぼくは線香一本供える気は無い。ぼくは此の世の治外法権者だ。健常な者に求めることをぼくに求めてはならない。

 いまの身体でぼくがどこから精神的生をいとなんでいるのか、自分にとって自明的に感じられても、一つの神秘である。精神は身体とは違う秩序をもつことを実証しているように思われる。

ぼくは現実の生活に関心をもつことはもうない。それはもうぼくが生きられない次元だから。魂にのみ関心がある。魂をめぐる四方、孤独・友情・愛情・社会のみ。そこで生活するためではない。「ぼくはきみがよろこぶ生活をする」というのは内面生活である。内面生活を軸とした生活秩序である。

美のヴィジオンを生きない生は何ら生きるに価しない

  これが 

  信仰なくしてひとは生きえないことの意味である




信仰とは美の信仰であり 「努力(effort)」と「恩寵(grâce)」の関係〔メーヌ・ド・ビラン〕である
 思想の言葉はこの両極の上に建てられるとき、それ自体において正しい(他者の同意を必要としない)





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子供の頃に見た、ロシアの旧ソ連時代に作られた「チャイコフスキー」を観返しているが、芸術家とその周辺の人間模様、高度な精神の心理描写の卓越性に、その抑制されているが故に深さをしめす表現手法とともに、感嘆を禁じ得ない。コミュニズムには到底収まりきらない文化伝統が大河の如く生きてきた。
 こういう純粋芸術作品は日本では作る土壌がないだろう。ところが観る側であるぼくとしては、このような作品に本質的な自己同質性を気づき、自分の本来の精神圏に戻った意識になる。鑑賞して、時間を本当に生かしたと満足する。こういう高い満足は日本の作品ではまずない。人間精神のほうは普遍的なのだ。人間意識の質の差が深刻な問題である。
 根本感覚は同じ人間である(いまの場合 日本人とロシア人)。しかしこの人間としての根本感覚に意識(思惟)がどのくらい密度的に迫りうるか、つまり意識的に表現しうるか、という問題なのである。例えていえば、日本はなぜドストエフスキーを生みえなかったか。環境・民族素質の問題か、人間の意識的努力の差か。思想の同一性ではなく普遍性を問題にして問うている。


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魂の生の四方、四軸を、孤独・友情・愛情・社会、とぼくはとらえる。これは「魂の実証」(すでに紹介した論文)で言ったとおもう。これらは魂の謂わば身体的要素なのだ。 一方で、この欄の本来の主題は、孤独、親密、神、である、と言った。孤独も親密も神も、本質的に相互浸透的であり、未分化に直感的に主題を表現したのである。分節化して示した四軸のなかで魂は生き、この生をとおして「神」に向き合うのである。


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2日
天の法は、「今まではおまえはかなりよくやった。しかし経緯はどうあれ今のおまえはもう役にたたない。今が大事。おまえはもう死ね」、である。これをぼくは徹底して〈天〉から教えられた。
これに反して、「人間」とはどういうものか、それをぼくはこの欄で一貫して言っているのである。


「人のことは分からないものだ」。これをぼくは天にたいして言ってやっている。〈天の声〉は〈民の声〉である。これは、ぼくの経験では徹底して事実であるから、よく気をつけるように。天の決裁などに、いかなる高度な真実も無い。〈民の声〉は、本音(ほんね)であるぶんだけ無責任で自己不在で無情で勝手極まり無いものである。天の動きは集合的人心の投影或いは延長上にあるものである。デカルトが物質の作用・反作用と見做した、外的法則に支配される世界の、霊界版であるにすぎない。

社会の背後にある裏社会の実体はこれである。大先生が若き日より拳(こぶし)を振り挙げたのはこれである。社会であり天である。

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聖なる意識のない者、日常雑貨的意識の者とはやっていられない。

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ぼくが欄を書く意識は、自分の意識を、これが言葉になったものを、留めておきたいのである。思想の受肉。思念がその都度「形」となったもの。ロダンが作る「断片」と同じである。それが集積されたところにぼくが現れる。「地獄の門」は「人間の門」である。それいがいのことを目的としていない。

やりたかった「夢」を刻むのである。「神」はそこに在る。