《「あれはなんの歌です?」
「スイスのグリュイエール地方の牛飼いの歌だよ。ランツ・ド・ヴァーシュだ」
聴き入っているロランのはげしい息づかいがきこえる。私は星空を眺めながら、歌を聴いていた。峡谷の谷から、人間の歌う声が迫りたつ山壁を伝って、空に昇ってゆく。星が埋った空に消えてゆく。長く尾をひく旋律が、人が歌う声なのか? 山に響きかえるこだまなのか?
私はただ茫然としていた。あり得ないことを、いま自分は経験している。パリ郊外のクラマールの森陰の、あばら屋に近い一軒屋で、暖炉にたく石炭も求められぬ、明日を知れぬ貧しい生活をしている自分が、このアルプスで、この山とこの星空と、そして大きな人間「存在」の間にある。そしてあの人間の「歌」は、なにを私の魂に語りかけているのだろう? 涙するほど、私の心は締めつけられていた。
これは精神の一情景なのだ。珍しいできごととか、面白い場面とかではない。あの歌声はある精神の象徴なのだ。そしてあの夜、もし村の若者たちが、ガンディーを送るためにあのように歌ってくれなかったならば、私の山や星空や、偉大な「存在」への感動も、あの山巓にきらめく星々のように、結晶はしなかっただろう。これが音楽なのだ。精神が音楽とともにあるということの、真意はこういうものなのだ。数十年を経た今の私に、この「音楽」そのものが生きつづけている。》
高田博厚「音楽とともに」7 (著作集III、402-403頁)
《日本に「思想」の土壌がないからでしょう。この頃さかんに「伝統」が喧伝されますが、精神伝統は生活や習慣のそれとは異なり、思想の土壌のことです。外国のもの新しいものに、世界一番にとびついて、紹介し、真似する日本は、結局は今日までの日本性格が、西欧が築き上げてきた「精神伝統」とあまりに縁がなかったことに原因するのでしょう。西欧のそれを理解するということは、西欧かぶれではない。人間の普遍観念に共通することです。そのために最も大切なことは、「自我」を謙遜に、素直に、しかもきわめて厳密に見出すことです。 「自我」の「存在」を自分が認識した時、人間の「創造」の意味が分かるでしょう。音楽はこれを最も直接に、最も深く示しているではありませんか?》
同8 (同404-405頁)
《日本人にもっとも欠けている「自我意識」に触れましたが、もうすこし書いてみようと思います。・・・ 美田節子さんが音楽教育に関連して、「音や和音が聴き分けられたり、音符を間違わずに読めたり、むつかしいピアノ曲が弾けたとしても、それがいったいなんだろうか? これでは人間と音楽の関係はどういうことになるのか?」と、切実な疑問を出しておられます。》
《 日本人は伝統的なのではない、まだまだ封建的なのです。》 (上写真中)
同9 (同406頁)
参照
伝統的「社会」主義国日本 03月27日 04:25