倫理だけでは俗物で、美意識がなければならない、というのが、ぼくの自明の理であってきているが、美意識そのものもまた、みずからのうちに倫理意識をもっていなければならないと ぼくは思う。そうしなければ美意識と呼ばれているものそのものが、美とは関係ないものになってしまう。醜をも肯定するものになってしまう。このいみで、芸術作品と世で呼ばれているものすべてが、美を証しているのではない。 美意識をぼくは最近では美感覚と云っているが、人間の感覚そのもののなかに倫理はあると思うのである。それが人間の感覚であるかぎり。 高田博厚も、美のこの倫理性を、「古風な純潔」(高橋元吉)において認識し、みずからのものとしているであろう。そう信じたい。 

 

倫理を無視して〈美〉を追求する人間たちには、ぼくは与しないのである。これは、倫理だけの俗物に与することでも無論ない。 

 

 

 

高田博厚の世界における倫理性に意識的に注意してゆこう。人間の本質には倫理がなければならない。「品格」と言っても同じことである。

 

美における倫理は品格である。美感覚のない倫理意識は俗物のものであり、品格がない。同様に、倫理感覚のない〈芸術〉制作者・鑑賞者にも、品格はなく、彼らは悪魔の徒なのである。