《・・・音楽会はまえより数が多くなってます。だが、これはピアノや指揮棒の選手の演奏会になってしまった。興行主はオーソドックスのプログラムを要求する、指揮者だったらベートーヴェン記念祭、ピアニストだったらショパン演奏会。公衆はなにが演奏されるかも知らないくせに、キップ屋に殺到する。もういちどいいますが、問題なのは音楽じゃなくて、演奏の名人なのです。われわれは、オーケストラのまえに六歳の小娘をすわらせて、そのめちゃくちゃな身ぶりをみて仰天しているような時代にいるのです!》

 

《・・・「作曲家の職業」には諸君の生活の糧になるようなものは、ほとんどなにも与えられないということを覚悟しておいてほしい。もし諸君の作品が何人かの友人か同時代人に味わってもらえたら、それで諸君の報酬と諸君の内心のよろこびは十分だとすべきです。それが創作するもののうばわれることのない唯一の特権です……》 

 

 

アルチュール・オネゲル『わたしは作曲家である』(1951) 吉田秀和 訳 172、174頁