暫定的信念として、感覚は客観的であると言っていいと思う。感覚は最も主観的であるゆえに普遍的、すなわち客観的なのである。ここで「客観的」という語を厳密に規定して使っていないことは承知している。日常的意識では「客観的」と云ってもいいだろう、という意味合いで使っているのみである。さらに言えば、ぼくの感覚にかぎっていえば、感覚は客観的らしい。なぜなら、ぼくが主観的に懐いた強い思いは、ぼくだけでなく他の者も同様か、もっと強く思っていることを、ぼくの狭い人間関係内で知らされるという経験を、ぼくは多量にしてきているからである。ぼくが訊ねたわけではない。向こうのほうからぼくに打ち明けるので、ぼくはいつも驚きをもってこの符合(一致)を知るのである。まるで世界が、ぼくの感覚の正しさをぼくに教えることを欲しているように。

 

なぜ、ぼくにおいて、このようなことがあるのか。もやもやとした思念の渦がぼくのなかにうごいているのであるが、いまは無理せず記しておけることのみ、記しておこう。