客観的な良識があるわけではない。良識なるものはすべて「じぶんの良識」にほかならない。すなわち じぶんの感覚である。感覚は常に じぶんのものでしかない。「良識」という観念で欺かれることはあっても、感覚は観念化しえないから、感覚で欺かれることはない。つまり、感覚こそは真の良識、あるいは良識の根源なのである。

 

ここで美術家もどきの者は、じぶんの感覚を普遍化して、滑稽ではあるが迷惑な断定を振り撒くことがある。ここで、感覚の自制が必要になってくる。なまの感覚が万能であるのではないのである。ここで はじめて真に、良識なるものが顕かとなってくる。われわれの感覚は、すでに判断なのであって、そのことによって、主観の刻印を背負っているのである。(高田博厚も、「感覚そのものが既に抽象である」と云っている。) 感覚そのものをわれわれは捉えることはできない。だから、感覚による判断に責任をとらなくてはならない。ここで責任回避は、詭弁と同じことになる。ここで逃げて断定だけ振り撒けば、その者は地獄に落ちる。ぼくは経験から、思惟の訓練のできていない絵描きの無品格を知っている。 

 

どんな世間的な者も、感覚でものをいうことはできる。感覚が純粋だなどととても云えない。感覚をどのように純化するか、これこそ人間知性の問題・課題そのものであり、ここに良識の活動がある。これこそ真の哲学である。