2014年10月 これはこれで面白かった処を紹介しておく。ひさしぶりだった。 この頃はまだ述懐や文人感想を楽しんでいる。状況とは別にふしぎに落ち着きとくつろぎがある。 いまが真面目すぎて緊張しすぎているのがわかる。

 



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ぼくも居た東京あたりの人間達はたしかにその他の地方の人間にくらべて心性がなっていないのが圧倒的に多い。もうはじめから少しの印象で自分の判断で他人を決めつけ否定的な無礼な態度を露骨に示すのがいるが、ああいうのをみると都会の人間がじつにいびつで、尊敬されるわけはない。互いにそう感じ合っているから、ああ相互に無礼なのだろう。外から来た人間にどんなに内心馬鹿にされているか、想像もつくまい。太宰治などが典型的に一貫して東京人を「もっとどうにかなりそうなものだがいつまでたってもどうしようもない」と書いている。彼の言は地方人一般の思いの代表であることは間違いない。東京という「でっかいだけの田舎」が日本の中部にあって、裏づけの無い言葉だけの非文化を全国に発信しているというのが日本全体のコンセンサスになっているのを知らないのは井の中の蛙の東京人だけである。


他にこういう〈絶対的独言〉を言いたかったのだ:もう「感謝」などというそれ自体は深刻な人間意識がこうも安価に広告紙のようにばらまかれているのをみると、流石に「いいかげんに口を慎まんか、俺は絶対〈感謝〉なんて安売りの言葉は口にしないぞ」とむきになってしまう程だ。感謝教という都会発民間自発宗教が蔓延している。いまに虚偽の仮面がはがれるだろう。感謝念仏で人間が軽くなり霧散する。



先日久しぶりに新潮アルバムで若い頃の志賀直哉をみたら、たいして僕と似ているように思わなかった。似ている者というのは瞬間どきりとするものだ。そのどきり感がなかった。おなじことは太宰治にも言える。この二人は嘗て自他共に僕に似ていると認めた、そういう人物だ。本質的印象に類縁性がある。実際その読んだ作品は自分の写し鏡のように感じた。いまは僕の精神はこの二人を遙か通り越してしまっている。それに応じて写真をみても相似を感じ難くなっているのだろう。不思議な比例感覚とは言える(勿論もともと僕は僕自身になるしかないのは解っていることだ)。西欧人でこのどきりを風貌から感じた人物は、リルケ、キルケゴール、ヴィトゲンシュタインだ。しかしもっとも相似を感じる人物はロシア人の或るタイプのなかにいる。僕自身は、解りもしないロシア文字やロシア語の発音に触れると、前世の懐に帰るような深い安堵感と懐かしさのような感覚をおぼえて自分でも不思議だ。無意識的なタルコフスキーなどの印象の影響だろうか。

 
 
親父の死顔は完全に神々しかった。遂に生身の人間を超えた表情になっていた。僕は咄嗟に、高田先生がアンドレ・ジイド臨終の際、在仏日本人代表として弔問し、ジイドの死顔から受けた深い感銘を述べた文章を思い出していた。「たいへんなことだなあ、人間もああいう顔になれるのか・・」と仲間と語ったという。〔生前の親父の顔とは次元が異なって美しかった。ぼくが受け入れうる超人間的な精神美が現れているのに驚いた。〕




愛は真実なものでしかありえない。その本質は秘匿性をもっている。愛は現実のみである。 感謝はこの愛にもとづいている場合にのみ語るに値する。 西欧の人間主義の本質は、愛である。感謝がそれ自体として主題的に語られることは殆どない。 諸君は目が覚めないか。

 
 


 

「音楽」を経験させてくれた指揮者
ブルーノ・ワルター
 
〔ひさしぶりに聴いてみたくなった。〕