他者にたいして滅多な口をきかなくならないうちは、人間は無教養である。どんな知識や技術、感覚をもっていようとも、無教養である。そういう無教養な人間を、ぼくは見すぎた。ぼくはもうそういう人間はいっさい御免である。 

 どんな人間にも哲学が必要なのだが、学問哲学ではない。個として実践する哲学が必要なのである。箇条実践ではない。正しくかんがえる思惟が必要なのである。この意味で、もとめられる哲学は、「哲学すること」という内的実践なのである。 

 

繰り返す。他者にたいして滅多な口をきかなくならないうちは、人間は無教養である。どんな知識や技術、感覚をもっていようとも、無教養である。そういう無教養な人間を、ぼくは見すぎた。ぼくはもうそういう人間はいっさい御免である。 

 

利口馬鹿というのがあり、じぶんが理屈で解るつもりのものが現実だと思っている。これは最低の無教養である。

 

感覚馬鹿というのがあり、じぶんの感性で感じているつもりのものが真実だと盲信している。そして生きる哲学をもたず、世間を原理としている。無教養そのものであり、つぎの信念馬鹿に次いでか同等に性がわるい。

 

信念馬鹿というのがあり、盲信の自己中心そのものである。多く語らずともよい。

 

(もひとつ、人間洞察馬鹿というのがあった。哲学科などに入ってきていて、そこの人間を側面から人間的に洞察できる気でいて自惚れている者らである。身のほど知らず、と一言言っておけばよい。) 

 

利口・感性・信念(・人間洞察)のそれぞれの馬鹿は、じぶんの特徴を得意がる分だけ、甚だしく思い上がり自惚れた、つまり馬鹿の標本である。

 

 

ぼくが自分と向き合っていて感情爆発するのは、いつもこの、記憶の中から浮かんでくる世の殆どの人間の、無教養の自覚が皆無な上での無礼千万な言動とその醜さに対してである。