ぼくの人間経験は、学者も美術家も、真理や美を求めると云いながら、人間が甚だしく駄目な者がじつに多いことを、ぼくに教えた。このことをかんがえると、美術家でありながら思索者であった(むしろ思索者でありながら美術家であった)高田博厚の偉大さは、日本人において並ぶもののないことが、強烈に、深く、認識される。このゆえに、ぼくは、意識して、高田博厚の精神を追求する動機を、みずからのうちに見いだす。この動機を持続させて研究営為をぼくはすべきである。 

 

 

日本の学者においても美術家においても欠けているものは、真の魂主義、すなわち「人間」であり、「魂」の探求においてこそ本質定義される「知性」である。 ぼくはこのことを高田博厚において学んだが、それは、ぼく自身をはっきり確かめたという意味においてである。ぼくは彼の弟子ではない。彼としか満足できる思想照応を見いださないという意味において、彼は最初からぼくの「友」であり、この思想の路を先に歩んでいる同胞として、「師」(唯一の師)なのである。

 

 

ぼくがこの欄で書いたいっさいは、ぼくの根源から汲んだ、彼の思想と照応できる自分になるためのものである。 彼の思想を研究するための自らの実体的基盤を培った者として、ぼくは比類なき高田博厚研究者であると確信している。 その証のひとつが、ぼくの著作『形而上的アンティミスム序説』なのである。

 

だから、そういうぼくの意図と奥行きを感知も予想もできない者を、ぼくは相手にしないのである。