誰が素顔の彼女の表情を観たことがあるだろうか。瞑想性の深い彼女の演奏を経験することから想像できるのみである。そしてその想像がたぶん実像に最も近い。 この節の彼女の表情をふたたび観たくなった。



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あなたの演奏を聴いていると、あなたがピアノのゆたかな世界・宇宙をこころから愛しておられることがよくわかります。その世界の美の経験と、それへのあなたの愛とが呼応し合って、あなたのふくよかな、ひろい演奏の世界がくりひろげられていることが、くりかえし聴いているとわかります。こころにむらさきのひかりの空間がひらけてきます。

 読者が直接繫ぐことができるようにしました。事実上の再呈示かもしれませんが、気のすむようにさせてください。〔CDはますますすばらしいです。〕


Hiromi Haneda - My Baby Grand ~Classics~ FULL Album (2008 ...


[Piano HD] Hiromi Haneda - こんなにそばに居るのに ( And to be by ...  〔657vues le 29 16:00〕



 




男性のピアニスト(勿論クラシックだが)の演奏がどう積極的に評価されようとも、愛にみちた、愛そのものの演奏、とは評価されることはないだろう。抒情性が深い、力強い精神性、くっきりした明晰さ、どう評価されようとも、愛という一元語はでてこないと思う。そのことを裕美さんの演奏を経験して感じるようになった。男性の演奏をぼくは対比的に〈理念的演奏〉と思うようになった、愛そのものだと感じる彼女の満ちた演奏との対比において。理念はひとつの現実への憧れ、郷愁であり、満たしてくれるものをつねに求めている。だから哲学において理念は探求統制的原理(カント)、方向づけの原理と理解されているのだ。ゆえに男性の為す創造は思索的であるともいえる。そういうなかにあって高田先生の作品にぼくは稀有の充溢を感じる。大胆にいまいうが、それは先生が、本質が愛である女性を深く深く愛したその魂があらわれているのだと思う。女性なくして男は理念にとどまるのみ。このいみで女性はまことに〈男が成熟する場〉(小林秀雄)であるのは真理のようにぼくは思う。リルケは、女性の愛は愛する男性を越えゆき神あるのみの境位にいたると言っている。男性は女性にとってほんとうに存在論的に必要なのか、男性にとって女性が必要なように、とぼくはいつもおもっている。それほど女性は求めることのない生活のなかで存在が満ちているように思われる。
 男性にとって女性が成熟の場であるということは、たえず付き合っていることをもちろん意味しない、とくに精神性の高い男性にとっては。リルケは、ニーチェの愛人でもあったルー・アンドレアス・ザロメに「フィレンツェ書簡」を書いた。己れの存在性を培い獲得することが彼の愛の労働であった。恋人と拮抗しうる己れの実体性を得ることが、彼にとって恋人を愛する絶対条件だった。その己れを得るために旅をし仕事し経験を醗酵させた。彼の手紙はそういう己れの有様の恋人への報告、証だったのである。高田先生もまた少年時の初恋の少女の自分へのひと言が、己れ自身への道に覚醒する契機となったという。結婚はしなかったが生涯高田はこの女性を想っていたようだ。高齢になってもおどろくほど美しいひとだったという。
 女性は男性にとって「在るということ」の啓示であってほしい。女性において、「愛が在る」のではないのか。


 



たぶんこれが彼女の実像に近いだろう。稀な思慮深さと霊感が感ぜられる。多く演出されているイメージとはちがう (演出を免れている像のみをぼくは撮っている。演出そのものが美の域に達しているもの以外は)。(「真の演出」とは、実像の本質を引き出すものだろう。)