調子が良いわけではないが、きょうはひさしぶりに読む気になった。かなりの理解力が必要なはずだが、これがよく読まれている。



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「エクラン」と「パラヴァン」の観念

 

 


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《 そこで、私たちが観念 (これはプラトンが意味しようとしたイデアではない。むしろ概念に通じるものだが。)と云い、感覚と云い、その間の関係を究めようとする時、その両者に対位する、超時間的な「存在」、窮極的にかつ無限に私たちの対象となるものがある。それは私たちが実に遠い昔から「自然」と呼ぶものであり、これがほとんど絶対的に「人間存在」の対象とならなかったならば、私たちに観念とか感覚とかの分離は起こらなかったであろう。更にこれを言い換えると、人間の智恵、科学力が自然を解剖し分析すればするほど、人間の観念感覚分裂するのである。なぜ、科学が発達しなかった素朴な時代の芸術作品が、より直接的であり、より本質的であるのか? むしろこれらの観念、感覚は、「自然」の絶対性と、それに対峙する「人間」存在の間に発生した幕(エクラン)、両者を互いに滲透させ、両者をそれぞれに反映させる幕、つまり両者の間に生まれた介在物であり、芸術現象はここで生まれる。そして芸術本質の問題はここでこそ究められるべきであろう。》 (続) 

 

 

 

上の、《これ〔自然〕がほとんど絶対的に「人間存在」の対象とならなかったならば、私たちに観念とか感覚とかの分離は起こらなかったであろう》、という文章には、ぼくは引っ掛かった。先生が感情あまってこう書いたが、正しくは、『これがほとんど絶対的に「人間存在」の対象となったならば、私たちに観念とか感覚とかの分離は起こらなかったであろう』、ではないのか、と思っていた。しかし先生の原文でも意味は通じるのだ。つまり、「自然」こそ、人間精神の積極的な意味でのあらゆる秩序・規範の根源であり、だからこそ、宿命的に、「観念、感覚」の問題が、人間精神において生じるのだ、と解することができる。人間精神は、自らを超越するものに関わるべく根源的に規定されており、このことが、自由存在である人間における、「観念と感覚との分離」をもたらすほどの問題の淵源となっているのだ。 

 ここの文章で、先生の有名な、「幕(エクラン)」 という発想が明確に表明されている。この重要性ゆえに、先生の文章の引用を、段落(パラグラフ)の途中で区切った。 芸術という現象は、「人間」が「自然」と対峙・接触する場である人間感覚において生じる。人間の感覚であるから、当然主観的であるが、この主観的感覚が、絶対(客観ではない)たる自然にたいし、どれほど敏感で純粋であるか、その在りようが、芸術の質を決定する、と言える。この感覚自体に、人間主観の作為的な夾雑物(ここで言う、概念に近い観念)が多いほど、比喩で言われるエクラン(écran)〔スクリーン・映写幕〕は、却ってパラヴァン(paravent)〔衝立・目隠し; 高田先生は「引き幕」という訳語を充てている〕になってしまう。先生が、《感覚が観念化することにきわめて用心深くなければならない》(前節)と言っている謂である。 芸術の真は、あくまで、この「幕」自体の放棄ではなく、純化において達せられるのであり、「人間」の純化と同じである。そこでは、自然と人間とが互いに滲透し合い、両者がそれぞれに反映し合う。これが文化である。