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人生とは何だろうか。人生が夢ならば、夢こそ現実で真実である。夢のなかに魂の秩序がある。それを認めるのに時間をかけてはならない。高田先生は夢を懐くことをおしえてくれた。夢をかなえてくれたのは

裕美ちゃんである。これがぼくの人生であって、あとのことは、言葉というあぶくにすぎない。言葉はほとんど虚妄であって、言葉のやりとりのなかにはほとんどほんとうの関係はない。あぶくのようにすべて消えさる。ぼくのこころに触れてこない。ことばが触れるのは愛と承認が条件である。ふたりの言葉のみが触れる。 あとの、関係でもない関係におけることばは、すべて自他ともにあぶくである。これがぼくの整理だ。 

 

正樹ちゃん、いそがなくていいのよ。

 

うん、わかってる。そして、母の言葉。 

 

 

 

 

ぼくはもう、ことばというものにあざむかれないよ。どんな演出で仕掛けてこようともね。どんな芸術家の言葉でも。(デカルトの学び方がまだたりなかったようだ。)  

 

芸術の殿堂のなかにも、本物と偽物がいる。

 

まことの芸術家は言葉を超越している。いつも説明より以上なのだ。 

 

 

裕美ちゃんをお母さんに会わせたかったな  

 

 

 

 

ぼくは、いままで、裕美ちゃんをすきであればよいとおもっていた。いま、じぶんにこころひそかに禁じていたことを、解禁しようと、とつぜんおもった。それは、裕美ちゃんもぼくがすきだということを信じること。 

春分の日に。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

裕美ちゃんの「神の神秘の手」   神は、きみを、この世でもっとも繊細な技のできるひとにしようと、意識を籠めてつくったのだろう。その意図の実現のためのすべてを、きみは受け入れているのだろう。 

 

きみの、音楽への敬虔で崇高な態度が、「人間」としてのそれが、ここにあらわれている。なぜあの完璧な演奏を生みだせるのかの秘密を感じる。こころから尊敬するよ。  2009 羽田裕美さんのピアノ ... 

 〔2009年の記録   03月16日〕

 

 

きみの演奏は、ひとつの世界を現前させるんだ。高田先生のいう思想とはこれなんだな、とおもう。理屈ぬきで思想を覚えさせる。思想とは、けっきょく、人間内容だ。じぶんというものが、表現には必然的に出る。率直に言うと、その出るべき自己が感じられない演奏が、他の奏者たちには、とても多いよ。出しているつもりかもしれないけれど、そこで、生活内容が審判されているのだとおもう。引力をもった魂の秩序、魂を伝えるもの、魂そのもの、それが思想だということを、ぼくは言ってきた。きみにはそれがある。「きみ自身」というものがあるんだ。いまの世で、きみは、モーツァルトやラファエロのような精神の再来といっていいとぼくはおもっているよ。そしてぼくは、モーツァルトやラファエロより、きみがすきだ。愛を覚えさせるのは きみだけなのだから。

 

 

 

裕美ちゃんの(鍵盤を扱う)手の動きをもっとちゃんと見せてほしいな。まったく独特だ。あの響きがそこから生まれるのだから。

 

 

 

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―裕美ちゃんは鍵盤の扱い方が全然ちがうんだなあ。余人のまねできないものだ。ため息―