ぼくには何度でも想起し反芻するものがある。

 


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《 片山が出発する前日、彼と二人でセイヌ河岸を散歩した。さわやかな夜で、空にも河岸の街灯にも、また向う岸のラ・サマリテーヌ百貨店(グラン・マガザン)の窓明りにも艶があった。窒息しそうな日本を去ってきて、これからフランスでなにが私を待っているかわからない。そこの美術に直かに触れ、そこの人間に接して、自分の気持には華やいだものは全くなく、むしろ重かった。予期もしなかった環境に引き入れられ、しかも一ヶ月百円、フランス貨にして千フランでは苦しいことがもう判っており、「自分には仕事しかないのだが……いったいなにができるだろう?」日本にいた頃の昂奮は失くなり、そこから背負ってきたものはあまりに重かった。「フランスで自分が未知なように、自分自身に対しても未知なのだ……その上、自分はこのフランスをなにも知っていない……」しかし、今にして思えば、この「不安」が私にとっては「幸運」であった。即座に解釈し説明しようという小賢しい了見が生れず、体当りするより他に生きようがなかったのであった。》 

 

高田博厚著作集 II 178-179頁 「分水嶺」

 

 

 

この情景は、いまのぼくにも想像できる感覚のものだ。正常な感覚は失ったにしても、これを描いた高田さんは身体そのものがもうない。ぼくのほうが物質身体としての感覚が残っている。先生は霊的感覚でもっと鮮やかに現在感じているかもしれないが。ぼくは失ったもののかわりに現在深く得たものがあればよいと思う。