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ゲーテがローランの創画について述べていることは普遍的に基本的なことで、さすがはゲーテだと正直思う。わたしは素人であるが、のちの浪漫主義・表現主義あるいは象徴主義絵画は、内面の想念・理想を主題とすることで古典主義の精神に沿うようでありながら、外界の形象・印象を正確に我がものとするという脚許がいつもおぼつかなく、結果、画そのものの浮いた非現実性が際だって感じられる傾向があると思う。それだけでなく、主観の想念そのものに何か純化されていないものが感じられ、ある種の不快感さえ与える。外界から受けるものに忠実であることと、自分の感情に正直であることとの、均衡と統合・融合が美の幸福を生んでいるのがフランス伝統精神だとぼくは思っている。ローランはほとんどイタリアで制作したようだが、このいみで典型的にフランス精神を具現している。フランスの風土・雰囲気、そこに造られた文化物には、他にはない、不思議な、しかしそれ自体は明瞭な、わたしが、人間の魂をアペゼ(apaiser)する‐鎮まらせ平和にする‐ものと言いたい、無言の或るものがある。それを充分に言い表す余力が今わたしにはないが、一見激情的、悲壮と思われる作品にもすべてこれがある。フランスに体質的な「グラース(優美)」と言ってよいものなのだろう。これは表面的な効果の底を抜けて瞬時に魂に達するものだ。フランス人が他と同様どんなに野蛮で罪悪なことをもやったにしても、その底に不断に在る人間理念のようなものだ。
 今日は二度目の原爆投下の日(6と9という数字もひっくり返しただけの因果な形象だ)で、「われわれにどういうことが出来るか」という相互自問が多く聞かれるが、「平和(paix)」を思うなら、普段の当たり前の穏和な生活の中で集積される経験に、歴史と文化を、「人間」を築くすべてがあることを常に思い起こすべきだと思う。穏和を維持すること、これは奇蹟に近い一番の力仕事なのではないだろうか。神々しい穏和、魂の平和、それをローランやコローの絵画世界、その背景の風土のたたずまいは、愛とともに喚起してくれる。これは「存在している」もの、唯一存在しているものなのである。どうしてそれ以外の空想的刺激に幻惑され、そちらに心を習慣づけ、殺戮を快楽と覚えるヴァーチャル文化に浸るのか。コマーシャリズムに汚染された現代西洋文化は文化破滅の範でしかない。「われわれに出来ること」の一歩は、自らの生活の「よごれちまったかなしみに」(中原中也)気づくことからである。〔中也を人生敗北の詩人にしてはならない。中也も原爆被害者も僕のことである。〕


 

 

 

コロー「ナポリの浜の思い出」1870-72
国立西洋美術館