節題が、ぼくが記しておきたいことであるが、正確には、精神分析療法以上の自己浄化である。これが本来の「哲学すること」である。 

 

 自己の生活環境との間の、自分のもやもやしている関係、これをそのままにして生活することも可能で、このほうが、一般の人々の生活実態だろう。このもやもやした関係を自ら反省して、根本的な自己決断を生じさせること、これが思索なのである。「言葉にする」とは、この意味での思索行為を形にすることであり、思索の証である。このような行為の反復によって、自己の同一性を確認し深化すること、これが哲学の営みである。 

 

 

哲学は自己の同一性の確認であり肯定である。この場合、闘うべきは、自己そのものではなく、状況である。天の創った状況との闘い。この闘いを通して、自己を陶冶するのである。