インスピレーションとは、経験の海のなかから形が生じることである。思いつきではない思想とはこうして成るものであり、これを書きとめるのがぼくの仕事である。これは理路整然とした論議から結論されるものでもない。理論的表現はむしろ思想の一つの表現形式にすぎない。

 

 

 

ぼくのいまの、上の意味での具体的インスピレーションは、つぎのことである:

 

人間は、自分がみずからを自覚しているようには、他から積極的にも評価されない。積極的に評価する場合にも、他はみずからの視点から評価するにすぎないからである。自分を尊敬し自分に期待する者だというので、寛容に好意をもって受け入れていると、じきに、はじめから原理的にあった齟齬がはっきりしてくる。日本人はまだ、これに気づかないほど、人間関係において、相手にたいして自己中心的であり、相手にたいして、評価してやっている、という、距離感のないスタンスから脱することができないでいる。これは、じぶんが評価される場合には相手中心になることと表裏である。〈他が評価してくれてはじめて本当〉という、日本特有の自己不在の慣習(伝統の名に価しない)が、社会というより人間世界そのものにおいて力を維持しているのである。 

評価というよりもほんとうの尊敬は、「自己自身」となっている相手そのものへの尊敬なのだが、多くの日本人の感覚はそこまで目覚めている場合は稀である。ぼくを尊敬すると言う者がいるが、ぼくは自分のどこに尊敬する諸点があるのか、自分では認め得ない。唯一、ぼくの存在そのものが尊敬に価すると認めるのでなければ、ぼくは納得しない。そのようにぼくを認める他者は、どこにいる? 西欧における、客観的評価の場としての「コンクール」は、日本における〈評価〉とは次元が全く異なるものであり、個人そのものの尊厳を前提した上のものである。