哲学に携わっている者など信用しないがよい。日本の哲学関心者は言葉観念だけで、実体が伴っていない。ぼくのようではない。だからぼくは、期待をかけた者すべてから うらぎられることになった。しかも当人たちは、哲学的真理に邁進中のつもりでいて、途上とはいえ真理の道を歩いていると思っている。実体はちがうということがわからない。日本の哲学研究者・哲学関心者は、すべてそうだと断言していいとぼくは思っている。高田先生の言葉を想起するが、自分を創造的に生きていない知識者は、知性者・教養者ではないのである。自分の言葉が書けるか、ということなのである。それには自分を生きていなければならず、その蓄積(経験)を生きていなければならない。学問的好事家では知性者ではないのである。これを高田さんも森有正も繰りかえし言っている。これは現在、ぼくのような者いがいには理解できないだろう。ぼくが何を問題としているかに気づきもしないだろう。そういうのが、相変わらずの日本人根性なのである。

 

 

ぼくはたしかに、文化勲章級の人間である。生きているだけでありがたい人間だと、最近ふと気づくようになった。もちろん、ぼくに勲章をくれるほど(たとえぼくが公的な仕事をしても)、日本の意識レベルは高くない。しかし日本がかろうじて文化(人間文化のこと)を維持するとしたら、それはぼくのような人間のおかげなのである。フランスの精神は、隠れた高質のフランス人たちに支えられて存在している、という、オリヴィエの口を借りてロマン・ロランが言ったことが、日本にも言えると、ここで敢えて仮想するならば、である。

 

 

 

ぼくは、「日本の哲学関心者を信用するな」と題した。これは否定要請ではなく、哲学に関心を持つ者も、先ず自分を見いだしていなければならない、と言っているのである。自分を見いだすために、あるいは、自分が見いだせないから、哲学を勉強する、というのは だめだ、ということである。

 想起する自分がない者が哲学してもなんにもならない。

 

 

 

参照:

真実の共有 ・ 品格は争えない

6/8 03:06