外国で博士号をとったのはそれだけで偉い。それがぼくの欧州滞在の全意味であるとしても、滞在の意味をすこしも褪せさせない。

 

 

 

自分の過去のことを評価するのは、自分でさえも難しい。まして、そのときの(過去の)自分を他者が評価することは、(その他者の)気が狂っていなければできない。 

 

 

 

外国で博士号をとる、それがどれほど、異常なくらい大変か、まず、外国で多年生活することが、異邦者にとってどういう内的状況を生じさせるか、それをみずから経験することなしには解らない。 

 

 

 

ぼくはとにかくそれに耐えて博士号をとった。これは、エベレスト登頂がそれを果たした者にしかわからないのと同じだ。そういう経験をしてきている。そのぼくが大学で哲学を講じることに、全然その前提経験を想像もできない学生がなんだかだ思うのは、馬鹿餓鬼の所業だ。黙って恐れ入って聞いておれ!!!(そのなかでも少し賢い者は、授業をすすめるうちに、ぼくが何ものであるかに気づいてくるようだった。)

 

 

 

公平であることは、他者の視点を受け入れることではない。どれだけ、自分にたいしてすら、じぶんで公平であることができているだろう。公平や誠実と云われるものは、厳格に考察すれば、十中八九、暗示的自己欺瞞でしかないことは、ますます明白だと、ぼくには思われるようになっている。

 

 

 

ぼくが生来どれだけ自尊心の高い人間か。そしてその高さの理由を知っている人間か。この自尊心は完全に満たされなくてはならない。

 

ぼくの自尊心を損なったり嗤ったりする者は親兄弟だろうが斬る。これがぼくの原理であり本性(ほんしょう)だ。