四年前  

 

 

いまだに〈自己責任百%〉主義者がいるようだが、主観的心情で個人的に通すのは自由だ。そういう意識は実存哲学を通ったぼくは徹底的に知悉している。だから同時に、そういう意識を客観化して他に主張する甚だしい本末転倒も原理的に理解しきっている。思索と慎重さの素養がないから、折角の自己経験を体験主義に転じて混乱させることになる。





ひさしぶりにジャン・フルネ指揮のフランク交響曲ニ短調を聴いている。演奏しているのが日本の交響楽団(都響)だということを意識しない。それほどフランス的な魂が現前している(そうぼくは経験している)。鬱陶しいほどのゆたかさだ。「神につうじる鬱蒼たる樹木に蔽われた大街道のよう」と ポール・クローデルの生涯と仕事を評した高田先生の言葉を思い起こす。まさにそのような作品であり、これは「フランス」いがいのどこでもない。雄大でありながら威圧とは無縁で親密である。実質にみちている。



フランクの交響曲ときみの五枚目第二曲がぼくのなかでぴったりと重なり合って響いている。きょう彼のこの作品を聴きたくなったのも、結局ぼくは自分の本質に合う、ぼくの歴史のなかで出会った存在に、アルモニー(調和・諧和)を感じる運命にあるからなのだ。この曲ときみの曲が結婚した。これがぼくのきょうでいちばん美しい出来事におもえる。
 ぼくの知らない感覚の秘密にぼくはみちびかれている





 

 

 

 


アルベール・マルケ「パリ、サン-ルイ島の先端」1928





 
 


〔補筆: マルケ作 検索より。 こういう画家が日本であまり鑑賞されないのは残念である。ルオー、マティスらとともにギュスターヴ・モローを師とし、彼らの親友。穏やかな画風で「水の画家」といわれる。フランクと彼女の〈海〉の曲が同時に聴こえてくる 〕