これこそ「精神の自由」そのものである。

 

この例で だいぶはっきりしてきた。



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ぼくの「方法」であると言える。 

 

 


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日本はどうしたことか、「感謝」を標語化している(殆ど感謝を強要している)から、それはきわめて不自然で観念的であることを、繰り返し注意しておく必要がある。それによって人間精神そのものがいいかげんになり、つまりぼくのいちばんきらいな「緻密さと正直さの欠如」をもたらすからだ。

標語化され意識化され身構えられた感謝は、すでにそれじたい、本来の感謝の意味を裏切り偽物にする。正しい感情、情操の基盤は、感覚と注意である。感覚が注意すること、注意する感覚である。これに基づいて正しい感情や観念は抱かれる。標語が駄目なのは、この、すべての健全な感情と観念の基である感覚の前に、幕を置いてしまうことなのだ。標語という人為的先行観念の幕、そういうものとしての感謝観念をだ。こういうものは情操育成のいちばんの敵である。人為的情操なるものは存在しない。情操には、情操であるための緻密な秩序があるのだ。その秩序に目を光らせ、情操の真実性、純粋性を保つ、個人における内的力が、「知性」なのだ。情操としての感謝の育成のために、標語感謝を禁止せよ。相手が、自分にしてくれることを、より正確には、自分にしてくれる相手を、注視し感覚せよ。そこでおのずと生じる相手へ積極的人間的意識感情、それは基本的に相手の存在への尊重の意識である。それが相手への感謝の念であることもあれば相手への思い遣りの念であることもあろう。根本はひとつである。相手の生きた存在を感じ尊重すること。これが根本にない感謝や親切など、それ自体、相手無視のエゴ感情の押しつけにぼくには思える。観念宗教の気持ち悪さである。

目の前の相手の生きた存在を感覚せよ。そしてそこから生ずる感情と意識にしたがえ。これが健全な情操の秩序である。