この世に大人などいない。子供が大人の真似事を覚えるにすぎない。

 

もっともらしい言動をしてみせるだけで、内実のあることなど滅多にない。

 

大人は真似事でよい。もともと「大人」など虚構なのだから。 子供のように内実のある人間がどれだけいるというのか。

 

子供を忘れ、大人にもなれず、空虚といういみでの子供に留まっているだけである。 

 

「精神の自由」という課題を背負わず、思いつきもせず、生きてきたからである。 

 

日本の自称インテリ層など、我こそは大人なりと思っている連中の野合である。関わりたいと思えた者などひとりもいなかった、というのが、敢えて接してきた長年の経験の結論である。

 

こういう手合からは、批判したらすぐ離れる。相手にしない。 不快な記憶がなければ ぼくもこれほど言いはしない。 あの連中、ほんとうに馬鹿だ、と思えるようになって、現在、その不快を解消できるようになっている。

 

 

これはぼくの記録として記すのだ。第三者にとって聞きづらいことは解っている。 ぼくにとって、書く必要があるのだ。

 

 

 

彼らには、哲学をやっていながら、高田博厚のいう「高貴さ(メタフィジック)」というものがまるでなく、それがない自分に気づいてすらいない。地上的感情のなかにしか生きていない。そのことにたいするぼくの絶望が、彼らからぼくを離しているのだ。 彼らはぜったいに気づかない。死んでも気づかない。