テーマ:自分に向って
今日、「彫刻50年 高田博厚展」-会期:昭和49年2月28日(木)~3月5日(火);会場:東京日本橋高島屋6階美術画廊;協力:現代彫刻センター- が届いた。この図版集の最初の二頁の文を紹介する。わたしの読者は難なく理解するだろう。
『 ごあいさつ
他の芸術に比べ地味であり、それ故に最も純粋な芸術といわれる彫刻芸術に魅せられこの道一筋に歩まれる、高田博厚先生の個展を開催いたします。
先生はロダンを先達者として近代彫刻が花ひらいた頃のヨーロッパで永年制作活動を続けられ、今日、日本彫刻界で第一人者として仰がれる方ですが、今回の個展は先生の全貌展とも申すべきものでございます。
皆様お誘いあわせのうえ、ぜひご高覧くださいますようご案内申しあげます。
『 ごあいさつ
他の芸術に比べ地味であり、それ故に最も純粋な芸術といわれる彫刻芸術に魅せられこの道一筋に歩まれる、高田博厚先生の個展を開催いたします。
先生はロダンを先達者として近代彫刻が花ひらいた頃のヨーロッパで永年制作活動を続けられ、今日、日本彫刻界で第一人者として仰がれる方ですが、今回の個展は先生の全貌展とも申すべきものでございます。
皆様お誘いあわせのうえ、ぜひご高覧くださいますようご案内申しあげます。
高島屋 美術部 』
《 彫刻と私
高田博厚
私にとって、芸術創作とは自我が未知の「自我」に「行動」することであり、他のなにものをも期待しない。社会が芸術に求めることとかならずしも一致しないから、報償も求めない。一般には、芸術行為は「自我表現」だと簡単に考えられており、ことにこの頃では「個性」が意義あるように考えられ、「だから、新しいものを見出さなければ……」と飛躍した結論を主張する者が多いようだが、ヴァレリーが「永遠のスファンクスなる自我」と言っているように、「純粋自我」なるものはそれほど安易に「実存」させ得るものではない。「自我に行動する」ということは未知の自分を発掘するというよりも、一見なんでもない、ありふれた自分を真に「存在」させること、安らかに存在するというよりも、「存在すること」の安らかさを実証することである。言いかえれば、漠然とした自我が「もの」として存在し得る、その「不動」の状態に在り得ることである。つまり、「個性」が真の「普辺」〔「普遍」〕の上に成ることであり、芸術行為はこのためにのみ意味がある。「芸術は長し(アルス・ロンガ)」の真意は、「芸術は永遠に未完である」を指している。そしてこの意味での「自我が自我に行動すること」は不可避的に自分を一元化させてゆく。造形の道に踏みこめば踏みこむほど、単純簡潔の「形」を求めるのはこれであり、そこでは「自我」と「形」は同一の「もの」となる。マイヨルが「私は自分の思念(イデエ)を形に現わそうとする」と言っているのは、形によって説明し表現するのではなく、「存在する自我そのもの」が「形」となることであり、そして、これの見本は「人間」を創った「自然」であり、人間の思想も観念も窮極には「形」を得なければならぬことを示している〔この「自然」の意味に迷う読者はいないであろう〕。そこで「人間」は「形」とは法則と調和によって成ることを理解するだろう。飛翔しがちな「観念(コンセプシオン)」を規定する精神態度、つまり「ものなしには考えない」という人間の基本的、実証的態度の意味はここにある。造形芸術はこの上に立っている。この頃「空間(エスパース)」という言葉が濫用されているようだが、真の「空間」は「もの」なしには生れない。空間はものが生む。更に厳密には真に「存在」する「もの」だけが「空間」を創る。一世界を創り支配する。芸術の存在理由はこれのみにあり、この「存在」は漠然とした「現実」よりも真に確かに実存する。芸術作品、彫刻の傑作はすべてこれであり、そこには時代や傾向、感覚による差別はない。「常に新しい古いもの」である。
私は大正初期、20歳以前にロダンによって「彫刻とはなにか」をはじめて知った。そしてその後30年のフランス生活で、常にブールデル、マイヨルが啓示であり、その一条を歩んできた。絶望をくりかえしながら。世間に出る意欲が全くなかったから、戦前戦後の芸術新理論、新傾向、新流行と離れていたことを、今にして幸いに思う。フランスで得た先輩友人たちが、若い時には当時唱えられていた新主義から出発し、仕事を深めるにつれ、自分のもの、「純粋自我」を生んでゆくのを見て、私は「美の道」を理解した。これが真の「抽象美(アブストレ)」であり、私もそこに到達しなければならぬ。
50年の間、常に自分を未熟と思い、70歳をとくに過ぎても、自分を小僧としている。そして歩めば歩むだけ、北斎の「百歳になったら、ものを画けるかもしれない」との態度が解ってくる。私もこの精神態度を持ちつづけるだろう。私にとって「造型」は姿態の面白さでも、記念碑的誇示でも、また技巧の「興味」でもない。「在ること」の不動の安らかさ。「もの」に即する落ちつき。たとえば、優れた陶器が持つ美しさ。エジプトのピラミッドの、灼熱の太陽の下の、なんにもない荒涼とした砂漠と紺碧の天空の中に、二つの直線に切りたてられた「量」、これが与えられた「自然条件」に即した抽象感覚なのである。この「法則」は「もの」が持っている。単純素朴に見える人間の胴体(トルソ)一つにもこの「無量」の豊かさ がある。私は一生胴体を作って学ぶだろう。「法則」とは内部から来る力、その局限に「形」がある。》
予定調和という摂理があるとしたら、ぼくが今日この先生の文を、ぼくのオリジナルな積み重ねの上に、確認として書きえたということである。
今日の図録のなかで、先生のデッサンに、「在るもの」を探求する先生の志向を感じとることができたと思った(正確には、感じていたものを自覚した)。それにしても、おなじ「在る安らかさ」を探求しても、マイヨールと先生とでは、これほど、現われてくるものがちがう! マイヨールのものはまさに明朗温和な「地中海」の「存在」であるが、先生のものは、「七尾の海」のパステル〔石川県七尾:先生の出生地〕に現われているような、どこか濃い陰鬱の翳のある、神秘な幽玄の「存在」であり、その「深さ」である。彫刻となった先生の作品が生む空間は、そのようなものであり、デッサンの志向が遂に「世界」を得たものだ。そういう気づきの視点から、関心のある向きは、先生の素描、彫刻を、検索して観られたらよい。
《 彫刻と私
高田博厚
私にとって、芸術創作とは自我が未知の「自我」に「行動」することであり、他のなにものをも期待しない。社会が芸術に求めることとかならずしも一致しないから、報償も求めない。一般には、芸術行為は「自我表現」だと簡単に考えられており、ことにこの頃では「個性」が意義あるように考えられ、「だから、新しいものを見出さなければ……」と飛躍した結論を主張する者が多いようだが、ヴァレリーが「永遠のスファンクスなる自我」と言っているように、「純粋自我」なるものはそれほど安易に「実存」させ得るものではない。「自我に行動する」ということは未知の自分を発掘するというよりも、一見なんでもない、ありふれた自分を真に「存在」させること、安らかに存在するというよりも、「存在すること」の安らかさを実証することである。言いかえれば、漠然とした自我が「もの」として存在し得る、その「不動」の状態に在り得ることである。つまり、「個性」が真の「普辺」〔「普遍」〕の上に成ることであり、芸術行為はこのためにのみ意味がある。「芸術は長し(アルス・ロンガ)」の真意は、「芸術は永遠に未完である」を指している。そしてこの意味での「自我が自我に行動すること」は不可避的に自分を一元化させてゆく。造形の道に踏みこめば踏みこむほど、単純簡潔の「形」を求めるのはこれであり、そこでは「自我」と「形」は同一の「もの」となる。マイヨルが「私は自分の思念(イデエ)を形に現わそうとする」と言っているのは、形によって説明し表現するのではなく、「存在する自我そのもの」が「形」となることであり、そして、これの見本は「人間」を創った「自然」であり、人間の思想も観念も窮極には「形」を得なければならぬことを示している〔この「自然」の意味に迷う読者はいないであろう〕。そこで「人間」は「形」とは法則と調和によって成ることを理解するだろう。飛翔しがちな「観念(コンセプシオン)」を規定する精神態度、つまり「ものなしには考えない」という人間の基本的、実証的態度の意味はここにある。造形芸術はこの上に立っている。この頃「空間(エスパース)」という言葉が濫用されているようだが、真の「空間」は「もの」なしには生れない。空間はものが生む。更に厳密には真に「存在」する「もの」だけが「空間」を創る。一世界を創り支配する。芸術の存在理由はこれのみにあり、この「存在」は漠然とした「現実」よりも真に確かに実存する。芸術作品、彫刻の傑作はすべてこれであり、そこには時代や傾向、感覚による差別はない。「常に新しい古いもの」である。
私は大正初期、20歳以前にロダンによって「彫刻とはなにか」をはじめて知った。そしてその後30年のフランス生活で、常にブールデル、マイヨルが啓示であり、その一条を歩んできた。絶望をくりかえしながら。世間に出る意欲が全くなかったから、戦前戦後の芸術新理論、新傾向、新流行と離れていたことを、今にして幸いに思う。フランスで得た先輩友人たちが、若い時には当時唱えられていた新主義から出発し、仕事を深めるにつれ、自分のもの、「純粋自我」を生んでゆくのを見て、私は「美の道」を理解した。これが真の「抽象美(アブストレ)」であり、私もそこに到達しなければならぬ。
50年の間、常に自分を未熟と思い、70歳をとくに過ぎても、自分を小僧としている。そして歩めば歩むだけ、北斎の「百歳になったら、ものを画けるかもしれない」との態度が解ってくる。私もこの精神態度を持ちつづけるだろう。私にとって「造型」は姿態の面白さでも、記念碑的誇示でも、また技巧の「興味」でもない。「在ること」の不動の安らかさ。「もの」に即する落ちつき。たとえば、優れた陶器が持つ美しさ。エジプトのピラミッドの、灼熱の太陽の下の、なんにもない荒涼とした砂漠と紺碧の天空の中に、二つの直線に切りたてられた「量」、これが与えられた「自然条件」に即した抽象感覚なのである。この「法則」は「もの」が持っている。単純素朴に見える人間の胴体(トルソ)一つにもこの「無量」の豊かさ がある。私は一生胴体を作って学ぶだろう。「法則」とは内部から来る力、その局限に「形」がある。》
予定調和という摂理があるとしたら、ぼくが今日この先生の文を、ぼくのオリジナルな積み重ねの上に、確認として書きえたということである。
今日の図録のなかで、先生のデッサンに、「在るもの」を探求する先生の志向を感じとることができたと思った(正確には、感じていたものを自覚した)。それにしても、おなじ「在る安らかさ」を探求しても、マイヨールと先生とでは、これほど、現われてくるものがちがう! マイヨールのものはまさに明朗温和な「地中海」の「存在」であるが、先生のものは、「七尾の海」のパステル〔石川県七尾:先生の出生地〕に現われているような、どこか濃い陰鬱の翳のある、神秘な幽玄の「存在」であり、その「深さ」である。彫刻となった先生の作品が生む空間は、そのようなものであり、デッサンの志向が遂に「世界」を得たものだ。そういう気づきの視点から、関心のある向きは、先生の素描、彫刻を、検索して観られたらよい。