四年近く前の文。しっかりしている。 

 

現在、社会は少しは改善されたろうか。



テーマ:
 

他と比べなくとも、日本はたしかに一般国民に冷たい社会だということは、もう前から何度もいろんな人から聞いており、ぼく自身も経験からそう感じている。「百姓は生かさず殺さず」のお上(かみ)意識が現代にまで引き継がれている。外国の日本領事館でも、パスポート申請に「受け付けてあげる」という態度で、同胞(自国民)をまるで外部者のように遇する。こういうことでいざというとき「同胞」を護る砦となるのだろうか。一事は万事の例で、日本人は自国民を他国民のような意識であつかう。普段の日常生活でそうなのは、外敵から同胞を守る態度が伝統に組み込まれている地続き大陸国とは違い、外敵意識に疎い島国根性なのだろうか。日本は人間ではなく組織を、国体を、守る。封建時代の真似事をつづけている。封建社会の枠の中での正義に胡坐をかいている時代劇など全部やめろといつもぼくは思っている。気軽な殺陣の人斬りが一番嫌いだ、大仰な滅私奉公劇とともに。「日本は一般国民に冷たい社会」。これはもうすべてに浸透している。
 「人間」が大事だ、と言っても、すぐに「社会における有用性」に吸収される。「人間」として生きることの「形而上性」を国民が理解していない。「集団主義」はけっして、かつ断じて、「個人主義」に対抗する一極などではない。「非人間」と「人間」の差だ。「人間の尊厳」はみずから克ち取るものである。「お上」が与え許す尊厳などない。

 日本研究者は、日本への愛着のあまり「伝統」を追認するだけで、日本への批判的視点を自分で培うことをしない者が多い。そういう視点は西洋から得られるというのか。自分の「人間」から得られるのである。





「文化」とは、「人間」が「自然」に反逆することであって、同意したり「自然」を追認または慨嘆したりすることではない。ぼくは〈自然にたいする人間の支配欲〉のことを言っているのではない。そうではなく 「人間」を護ることなのである。






石井一昌の言霊97 :
「今でも自衛隊の中でイジメによる自殺がある」。
「庶民である兵士を大切にしない組織に 庶民を守れるはずがない」。
「行き着くところは 庶民を犠牲にしての組織防衛になる可能性が強い」。「しかも「国防」や「愛国」の美名の下に」。



「いじめ」は必要悪ではなく 不必要かつ余計な悪意(精神を破壊する意志)そのものである。「人間」を尊重しないところに必然的に生じる。日本から「いじめ」はなくならない、「人間」が社会で市民権を得ないかぎり。 完全に言うまでもないことだが、子供社会は大人社会の縮図である。くりかえすが日本は「人間尊重」社会などではなく「役職尊重」「組織尊重」社会である。「個人犠牲の時代劇」をいつまでやっているのか! それのために「戦うべきもの」「義務を負うべきもの」の本体に目覚めていない。 だから ただ一時的なその都度の「目標」に自体的に暴走できるのだ。最近の一連の社会的失態は、地に足の着かない「浮かれ踊り」の暴露であることにまだ気づかないか! 「人間」忘却であることで 「いじめ」と全く同根なのだ




自分達の言動に責任を負わない大衆の感情によっても国は暴走させられる。国民の後押しのなかった戦争などない、と普遍化して言いたくなるくらいだ。



何故 「日本は一般国民に冷たい社会」 なのか― ぼくは見解を述べたうちにもちろん入らない。簡略な見解などなんにもならない深い問題を感じるのみである。