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『 世界がいかに あるかは、より高きものにとっては全くどうでもよいことである。神は世界の中に 自らを啓示することはしない。』
   - ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」(六・四三二) - 


まったくこのように正しい真理があるだろうか〔前節の内容とも重なる〕。ぼくの生きている真理そのものだ。日本人一般はどうしてこの水準にまで達しないのか。むしろそのことのほうがわからない。



博識ぶっている学者どもも、世間通を自任している事業者たちも、「人間の現実」に触れてすらいなかった。なんというところなのだ、日本は。 それで庶民が〈我に理あり〉と思えるほどに、「人間の現実」は甘くもない。





『 人間は、他に嫌われていいから自分のこれを貫くと決め為す瞬間からしか、「生き」はじめない。』
  古川正樹

 
まったくその通りだと思う。最近 妙にそういう人間がいなくなった。人格性を感じない。相当悪魔に呑み込まれている。「我」を感じない。操縦されている。



くだらないことには意識が向かわないのがよい。 この一言で済んだ。これが世界だ。 



ぼくは、もちろん、当然、ふつうの人間であるというきわめて当たり前な、身の程を知っているつもりの思いをいだいている人間である。それは自分自身に静かに向い合っているときに、自明の感覚としてそう思っている。なんの衒った意識も自分に付け加える必要も感じない。そしてありのままの自分に充分満足している。恩寵は、そういうふうに自分を感じて思うことができることそれ自体だと思っている。この点で、ぼくいじょうに幸福な人間がいないとしても、そのことに充分ぼくは納得するぐらいなのだ。そういうとき、ぼくは宇宙の底に居るようなゆたかな落ち着いた状態になる。ぼくの愛するひとには、そういうぼくを愛してほしいと思う。おっとりして楽天的なぼくが、もぐった海のなかのようにいる。



そういう自分がなければ、闘うということもまたできないのだ。現代の若者達は、戦時中の青少年たちより幸福なわけではけっしてない。情操という点においては。

情操の意味くらい自分でかんがえてみなさいといいたい。



「ああ、おまえはなにをしてきたのだと、…」 そう嘆く必要もぼくにはない。



ぼくがなにをしたいのか、したかったのか、してきたのか、やっとわかってきた。ぼくはぼくの「薔薇窓」を描きたかったのだ。そのために高田先生と共にいた。 そのとき、世界とは何なのか。 先生にとってそうであったものであるように、ぼくにとってもそうであるところのものなのだ。 すべての、魂である人間にとってそうだろう  




日本は、戦直後の貧しい精神状態をずっと続けている。精神が砕かれたままだ。戦後は全然おわっていない。

おまえたちはなにをしてきたのだ  戦後日本人に言うべきだろう 

(戦中的な集団言動の復活など問題以前である)