オリーブの花 再撮影 きょう 

 

 

5年前のきょう   よく書けている。 



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ガブリエル・マルセルを日本が真に理解するための障壁が、日本の大学人の所謂超心理学的現象つまり広義の心霊現象への顧慮を捨象する態度であることは、誠実なマルセル研究家にとって異存のないところだろう。だから我が国では未だ処女作「形而上的日記」すら正しく読解し得ていないと言われるのだ。小林秀雄が言うように、その種の現象にたいする知識人の反省態度が真面目でない(正面的・純粋でない)のだろう。ここで重要なのは、それこそ哲学的に、つまり「人間」として、どういう精神態度をとるべきかということであって、似非批判的に否定したり逆に心霊主義的にかぶれたりすることではない。マルセル自身が自らのその種の経験をやむを得ず繰り返し強調せざるを得ないことに内心の嫌悪を感じていたという告白を、注意深い彼の読者なら印象に留めているはずと思う。最近漸く、マルセル理解における心霊的事象の正しい位置づけへの気づきが公開論文などで認められる(ぼくの感じでは)ことを喜ばしく思う。ここでぼくが付け加えたいことは、彼が可能的・現実的な心霊的世界に「形而上的希望」を託したことに、まさにかの世界が応えることを、ぼくはかなりな不安を抱きつつ期待せざるをえない、ということである。かの世界は、ほんとうに「人間の理念からの信仰」(イデアリスムの信仰)に応えるようなものなのか、希望の空間は不安の空間と実はないまぜなのではないか。彼の霊媒体験の報告記そのものからも、このことが垣間見られると思うのである(死んで人格が変わった死者の報告等)。彼は「存在論的なもの」と「形而上的なもの」とをきわめてナイーヴに重ね合わせて思惟している印象を受けるが、いまのぼくにはそれは単純なことではないように思える。「真の愛は愛する者が永遠に存在することを欲しかつ断定する」という彼の思想はまぎれもなくイデアリストのものであり、ぼくはこれに全的に共鳴する。先生の師ロランの精神の恩人マルヴィーダの魂的信仰と同一であろう。マルセルの希望の思想は、謂わば実在的な次元からその可能性の空間を受けとりながら、根本においてはその空間に己れの「理念」と「意志」を果敢に投げ入れるものであり、そのようなものとして、まさしく不安の只中における希望の信仰である。全的に肯定的な意味での「人間主義」である。「存在の神秘」の中核にこれがある(だから神道に共感しても自然崇拝とはならないだろう)。
 
 ぼくの高田博厚小論の公開に踏みきる。